「迷ってる時期だったので、もう確実に決めたかったんですよ。曖昧な結果で済ませたくなくて」

 当時の心境について尋ねると、しっかりした声で答えが返ってきた。

 伊藤沙恵はその日、自分に全勝を課していた。1日に3局行われる奨励会において、3連勝できなかったら退会すると決めていた。そして伊藤は3連勝できなかった。

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 規定上は、まだ奨励会に残ることもできた。間近に迫った年齢制限をクリアできる可能性も、ないわけではなかった。しかし……。

「もしそこを通過できたとしても、今後昇段していくためには『ここで何勝しないといけない』ということがあると思うので。大事なところで勝てなかったということは……」

 だから決断した。年齢制限という規定ではなく、自らの意思で退会することを。こうして伊藤は女流棋士になった。2014年の10月。もう4年以上も前のことだ。

 私が伊藤の姿を初めて見たのは、とある出版社の記録映像でだった。当時、その出版社では奨励会を題材にした漫画を企画していたようで、例会日の朝の光景を撮影していたのだ。約10分の短い映像。対局シーンはない。

 その映像は、関東奨励会の、出欠を取る場面から始まっていた。幹事のプロ棋士が出欠を取る場面で、儚さすら感じさせる声が響く。興味を引かれて画面を覗き込むと……男だらけの中にポツンと座っていたのが、伊藤だった。

 奨励会に入る女性は、本当に少ない。そんな奨励会時代に女性と将棋を指すことがあったのかと尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「加藤子さんが何年か後に入ってこられたので。練習でも何度か指しましたけど、奨励会の対局では何十回も指していると思います」

 それでも同世代の女流棋士と比べて、女性と対局した経験は遙かに少ない。伊藤の相手は常に男性だった。過去のインタビューにおいても『男性のプロ棋士には思いっきりぶつかっていける』という発言を度々している。

 逆に……女流棋士と戦う時は、『勝たなければ!』という意識がある?

「いやいや! そういうことではなくて……」

 慌てたように否定してから、伊藤は言葉を選びつつも、己の苦悩をこう表現する。

「ただ、やっぱり……周りの……奨励会に在籍しておられる女性が、女流棋戦でタイトルを取られたりという成績を残していらっしゃるので。私も奨励会に在籍していた身としては、何か残さなければいけないような気がしてしまって……」

 奨励会で盤を挟んだ加藤桃子。関西で三段まで上がった西山朋佳。そして絶対王者として君臨する、里見香奈。

 奨励会を経験した女性は、確かに女流タイトル獲得という結果を残している。それどころか最近の女流タイトルは奨励会経験者によってほぼ独占状態にあると言っていい。

「そういった周りの目も、ちょっとあって……」

 女流棋士になってからも、奨励会員の気持ちのまま戦っていたところがあった?

「そうですね。残っていた部分も……」

 2年前、王座戦に登場した時の観戦記で、伊藤はこう語っている。

『今23歳。一般的には若いけど、女流棋界的には若くない。(中略)このままじゃいけない。でも、現状を変えるのは簡単ではない。私、本当に毎日悩んでいる…』(第65期王座戦予選特選譜第2局-2)

 そこから伊藤は女流タイトル戦に登場し続けるも、獲得には届いていない。25歳になった伊藤は、女流棋戦で常に勝利を期待されている。

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 一方で、女流棋士に勝ったことが『奇跡』と表現された女性もいる。カロリーナ・ステチェンスカ女流1級は、外国籍を持つ女性として初めて女流棋士となった。

 それだけでも唯一無二の存在なのだが……漫画『NARUTO』を読んで将棋を始めたというのは、もう伝説になっている。

「16歳ですね。最初アニメ見て、その後に漫画を買って。漫画の中に出てきたジャパニーズ・チェスというのが気になって、インターネットで調べました」

 故国ポーランドの言葉で『ヤポンスキー・シャッヘ』と呼ばれるゲームとの出会いが、それだった。

 16歳で全くの素人だった女性が将棋の勉強をして女流棋士になるというのは、日本に住んでいても難しい。

 だがステチェンスカはポーランドにいながら将棋を学んだ。盤駒すら満足に用意できないような環境で。

 インターネットで対局を繰り返し……そして2012年に海外招待選手として出場した女流王座戦で、女流棋士に勝利する。外国籍のアマチュア女性として初の快挙。まさに奇跡だった。

 ステチェンスカは日本の漫画が大好きだが、漫画なら何でもいいわけではない。萌え萌えした漫画や少女漫画はあまり肌に合わないようで(私の作品に対しても微妙な評価だった)、とにかく真っ直ぐな、週刊少年ジャンプのバトル漫画のようなものを好む。

 勇気や好奇心以外に何も持たない主人公が、圧倒的な力を持つライバルに立ち向かっていく。そんなストーリーが好きなのだと、声を弾ませた。

 漫画を読んで影響を受けた経験は、日本人なら誰にでもあるだろう。『スラムダンク』や『キャプテン翼』がなかったら、日本におけるバスケやサッカーのプロリーグは存在しなかった。日本の漫画が子供たちの夢にどれほど大きな影響を与えるかは、その結果が示している。

 ステチェンスカは日本に来てからも『はじめの一歩』を読んでボクシングを始めたりと、将棋以外の面でも漫画の影響を受けているようだ。

 しかしそれは決して浮ついた気持ちを意味するものではない。なぜならステチェンスカは、将棋の日本文化としての面について、日本人に勝るとも劣らぬ強い誇りと敬意を抱いているからだ。

 「正座はまだ慣れない」と言うが、椅子ではなく畳に正座して行う対局については「でも、それがいいじゃないですか!」と目を輝かせて主張する。

 「そういえばカロリーナ先生は常にスーツですよね?」と尋ねると、待ってましたとばかりに頷いた。

 「そう! やっぱり仕事だから」

 将棋を知ったばかりの頃、ステチェンスカはワルシャワのカフェテリアで仲間たちと将棋サークルを立ち上げ、大会も開催した。

 故国に帰ればそんな仲間たちと将棋を指すこともあるというが……女流棋士になった今、ちょっぴり不満に思うこともある。

 「彼らはお酒を飲みながら指したりもする。日本とは、プロの扱いがかなり違うね」

 ヨーロッパでは、将棋はボードゲームという感覚があるのかもしれない。そんな時はステチェンスカもお酒を飲んだりするのだろうか?

 「私、普段はクレイジー。でもお酒を飲むと……」

 まともになる?

 「倍、クレイジーになる」

 ニヤリと笑って、ステチェンスカはそう言った。

 伊藤も、そしてステチェンスカも、女流棋士になろうと最初から考えていたわけではない。しかし今、二人は女流棋士となって、盤を挟んでいる。

 二人の足跡がどうであったかは、勝敗には関係ないだろう。技術だけで表現される盤上においても、指し手に影響することはないのかもしれない。

 しかし、その将棋を観賞する私たちにとっては……二人のこれまでの道のりと、出会いに、奇跡のようなものを感じざるを得ない。

 地球の反対側に住んでいた二人。周囲からの視線も正反対の二人。女流棋士になるルートも正反対の二人。たくさんの奇跡が起きなければ出会うことすらなかったはずの二人。 そんな二人が出会い、戦う場所が……将棋なのだ。(白鳥士郎)

◆白鳥士郎(しらとり・しろう) 1981年、岐阜県出身。学生時代に小説を書き始め、2008年に「らじかるエレメンツ」で商業デビュー。2015年にスタートした「りゅうおうのおしごと!」では、第28回将棋ペンクラブ大賞文芸部門優秀賞を受賞。漫画、アニメにもなった。

◆女流AbemaTVトーナメント 持ち時間各7分、1手指すごとに7秒が加算される、チェスでも用いられる「フィッシャールール」を採用した女流棋士による超早指し棋戦。推薦枠の女流棋士、予選を勝ち抜いた女流棋士、計8人がトーナメント形式で戦い、1回の対戦は三番勝負。優勝者は、第1回大会で藤井聡太七段が優勝した持ち時間各5分、1手指すごとに5秒加算の「AbemaTVトーナメント」に、女流枠として出場権を得る。

(C)AbemaTV


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