一般的に「得をしよう」と考えるのが多くの人の行動原則だろうと思うが、なんらかの理由で、「損をしたい」と考えた男性がいたとする。彼が既婚であればすでに目的を達成していることになるが、未婚であれば、ブックメーカーに駆け込んでレスター優勝に賭ければよかったかもしれない。昨年8月のプレミアリーグ開幕時では、損をするための最も確実な方法のひとつが「レスター優勝に賭ける」だったからだ。
ブックメーカー『ウィリアム・ヒル』によれば、シーズン開幕時のレスター優勝のオッズは5000倍だった。5000倍というオッズを最も簡潔に表現する語は「不可能」である。つまりレスターの優勝確率は、プレミアリーグでパリ・サンジェルマンが優勝する確率と同じと見なされていた。
当時からレスター優勝を真っ向から否定するデータは豊富にあった。レスターは一昨年まで2部リーグに所属し、11年振りにプレミアに復帰した昨季は14位に終わった。なんとか降格を免れ、13位のWBAと笑い合っているようなチームだったのだ。
また、プレミア歴代優勝チームの一覧も、レスター優勝に疑義を呈するデータだった。約20年前から、プレミアリーグの優勝トロフィーには4つの指紋しか付いていない。指先から紙幣のインク臭の取れない4つのビッグクラブ――、すなわち、マンチェスター・ユナイテッド、マンチェスター・シティ、アーセナル、そしてチェルシーである。「資金力のある強豪じゃなきゃ優勝できませんよ」と歴史が物語っているのだ。
ではレスターの資金力はどうだろう。上記の4強の選手報酬の総額が約2億ポンド(約360億円)であるのに対し、レスターはわずか4820万ポンド(約82億円)。4分の1にも満たない。多くのイングランド人がこの20年間で学んだ2つのことは、EU参加は軽率だったということと、選手の年俸総額と成績は比例する、ということだろう。「相手チームに対して年俸総額が4分の1のチームは、スコアでも4対1で負けるに違いない」――。そんな先入観にまみれた人々のなかで、「4強を押しのけてレスターが優勝する」と主張するためには、同時に街の変わり者として生きることすら覚悟しなければならなかった。
しかし前述のブックメーカー『ウィリアム・ヒル』によれば、その“不可能”に賭けた市井の変わり者は約20人もいたという。選手の親族だけでゆうに100人を超えるだろうことを思えば、この数字は寂しすぎる。ただ勇敢な彼らはシーズン開幕時に5000倍のオッズに賭けた。そしていまや彼らが銀行預金のなかに財宝を発見し、嘲笑の的から一転、“レスター長者”として我が家に凱旋する日は近い。本稿執筆時点(4月5日)で、レスターは2位トッテナムに勝ち点7差をつけて首位をキープしている。ちなみに“可能”だったはずの昨季王者のチェルシーは10位という憂き目に遭っている。どうやら盛者必衰の四文字に国境はないようだ。
筆者が昨年9月に1泊2日でレスター市に滞在したさいも、フォクシーズ(レスターの愛称)のリーグ優勝を信じるファンにはついぞ出会えなかった。訪問当時(9月30日)の成績が4勝2敗1分というまずまずの成績だったにもかかわらず、である。
そもそもレスター市を象徴するスポーツチームはフォクシーズではない。国内ラグビーの強豪、レスター・タイガースである。プレミア制覇の経験のないフォクシーズに対し、1880年創立のレスター・タイガースは国内1部リーグを10度、欧州を2度制覇したラグビーの世界的強豪である。タイガースに比べればフォクシーズなんて、という積年のやさぐれた態度が、レスターのフットボールファンの基本的なポーズだったのだ。
事実、レスター市ではアラブ系の30代男性の自宅に“民泊”したのだが、インサイドキックの素振りをして「趣味はフットボールだ」と笑ってくれた家主の男性は、フォクシーズに話題が及ぶと、にわかに表情を曇らせた。「レスターのサッカーチームは弱いからね」そう言って口をM字型にする彼に、地元チームに対する忠誠心は感じられなかった。むしろフォクシーズや本拠地キング・パワー・スタジアムを恥部と考えているようで、もっと楽しいことについて話そうぜ、とばかりにすぐ話題を変えられた。
あれから約半年が経って、あの時の男性の口は、M字型からO字型に変わっているだろうか。いまや世界中のフットボールファンが、レスターが起こしつつある奇跡にあんぐりと口を開けている。そしてその物語の俳優の一人が日本人であることに多くの日本のファンが喜びを隠しきれずにいる。
レスターの生命線のひとつは、芝生の上の追い込み漁――、すなわちプレスである。弱小チームにおける大概のプレスは、年俸確保のための見せかけの献身だが、レスターのプレスはスポ根ドラマさながらに激しい。ゆえに攻撃の一部として機能し、少ないチャンスをものにする集中力と相まって、“堅守速攻”の古典的スタイルで勝負することができている。
そのプレスにおいて最も奮闘する一人が、日本代表FW岡崎慎司。豊富な運動量で自陣まで下がってプレスする岡崎の姿は、今季のレスターの象徴的存在にすら見える。トヨタ・ハイラックス並みに頑丈で、よく走り、ホンダと競合することなく共闘もできる。岡崎はすでに交換可能な複製品ではない。カウンター志向のレスターにフィットした、オンリーワンのメイド・イン・ジャパン・ブランドだ。
本稿執筆時点で、レスターは、残り6試合中4試合に勝てばクラブ初優勝が決まる。
今季のレスターの結末、そして岡崎の活躍を見逃せば、未来の自分がやってきて殴られるかもしれない。20年に一度あるかないかの奇跡が、起こりつつある。
文・タラマサタカ/スポーツライター
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