「親になろうとしてごめんなさい」目黒女児虐待死事件、友人たちが明かした雄大被告の生い立ちと“理想の家族像”
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 東京・目黒区で船戸結愛ちゃんを虐待した末に死亡させた保護責任者遺棄致死の罪などに問われた当時の義理の父親・船戸雄大被告の判決公判が15日、東京地裁で開かれた。守下実裁判長は「もはや"しつけ"という観点からはかけ離れ、自らの感情に任せて行われた理不尽なものであったことは明らかだ」「被告人が終始保身の気持ちを優先し、被害児童の生存確保への思いは二の次であった」と指摘。「最も重い部類のものとして位置付けた」とし、懲役13年の実刑判決を言い渡した。

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 結愛ちゃんが遺したメモが全国に衝撃を与えたこの事件。裁判の中では凄惨な虐待の実態とともに、「自分の思い描いた理想が強すぎた。私が…親になろうとしてごめんなさいという気持ちだ」と話すなど、背景に雄大被告の中にあった"理想像"が暴力の連鎖を生み出していたことも明らかになっていった。

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 「13年という判決に対し、短いと感じる人も多いだろう。僕も取材をしていて、絶対に許されないと思ったし、同情の余地も一切ないと思った。だから彼を批判するのは簡単だが、なぜ13年ということになったのか、そして、なぜ彼がそうなってしまったのか、そのプロセスを冷静に立ち返って考えないと、予防にはつながってこない」。

 そう話すのが、事件を取材しているノンフィクション作家の石井光太氏だ。14日放送のAbemaTV『AbemaPrime』では、石井氏とともに、雄大被告が歪んだ"父親"になるまでを追った。

■結婚前は良好な関係…"理想的な家庭"を作りたかった?

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  東京の大学を卒業後、大手通信会社に就職した雄大被告。会社を辞め、香川にやって来た。一方の優里被告は地元の高校を卒業後、19歳で結婚し、結愛ちゃんを出産。22歳で離婚していた。

 そんな2人の出会いは、キャバクラ店のキャストとボーイとして。2か月後には恋愛関係になる。当時の店長は雄大被告について「仕事ぶりも真面目で、出勤後には1人で黙々と掃除していた。店に来た結愛ちゃんをかわいがっていたし、子どもを大事にするタイプだと思った」と振り返る。その後、2人は店を辞め、雄大被告は食品会社に就職。3人が暮らしていたアパートに住んでいたという男性は「女の子と男の人がボール遊びとかしよった。仲は良かった。泣き声とか怒鳴り声を聞いたことないなあ」と話す。この頃のことについて、優里被告も「肩車してもらったり、スキンシップを取ったり、仲良しだった。雄大の膝に乗ったり甘えていた」「結婚前はお兄ちゃんと言っていた」と証言している。

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 「報道されていない話だが、優里被告の方が雄大被告に惚れ込んだ。シングルマザーとして夜の仕事をし、大変な日々を送る中、誰もが知っているような企業で働いていた男性が東京からやってきた。仕事もできるし、口も上手い。ある種、自分を厳しい世界から助け出してくれる"白馬の王子"みたいに見えた部分もあるのではないか。そして雄大被告は、優里被告が妊娠した時に結婚して4人で幸せな家庭を作ろうと決心するが、ここで僕が一つのポイントだと考えている出来事が起きる。友人の話では、雄大被告が北海道にいる母親に報告をすると、勘当をするくらいの勢いで"水商売をやっているシングルマザーで、父親が誰かも分からないような連れ子がいる人との結婚は絶対許さない"と猛反対されたという。しかし雄大は反対を押し切って結婚した。周りの人間によれば、雄大被告は"責任感のある人間"。逆に言えば、だからこそ理想的な家庭、みんなが羨むような家庭にして、母親を見返してやろうという思いが出発点になったのではないか。実際、雄大の友人たちによれば、むしろ結愛ちゃんをきちんと育てようとしていたという。土日には県外のテーマパークに連れて行き、欲しがったものは買い与えていた。結愛ちゃんも"お兄ちゃん、お兄ちゃん"と懐いていたようだ」(石井氏)。

■「しつけ」が暴力行為へエスカレート

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 雄大被告も公判で語った、「明るく笑顔の多い家族」という理想。その一方、養子縁組の際にはあくまで「養父」であることにショックを受け、「"実父"という肩書きが欲しいと思った」とも話している。そして、「子供やし、ましてや他人というかお前のことを親父だっていう認識もまだちゃんと子供なりに納得がいっていない部分もあるかもしれんのに、そんなに色々なことを押し付けてもすぐには解決せん」という友人のアドバイスも虚しく、「私のエゴ(勝手な考え)を押し付けるために恐怖感を植え付けようと。自分の思い描いた理想に対してエゴが強すぎた」「自分が父親になれるだろうかと大きな不安を持っていた。周りから血が繋がっていないことが悪いことと考えられると思ったからだ」と、"しつけ"は悲惨な暴力へとエスカレートしていく。

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 あいさつや起床時間、しつけや態度を巡り、結婚直後から優里被告を叱り始める。公判で優里被告は「短くて1時間。長いと夜に終わる」と証言。そして半年後に子どもが誕生すると、言葉は暴力へと変化、その矛先は結愛ちゃんにも向き、お腹をサッカーボールのように蹴ることもあったという。さらに体型を変えるほどの厳しい食事制限も始まった。別の知人によれば、雄大被告は幼少期に父親から些細なことで頭蓋骨が変形するくらい暴力を受けていたという。しかし雄大被告の認識はあくまで"厳しいしつけ"だったようだ。

 「虐待について、実子が生まれたことで連れ子の結愛ちゃんが憎くなったからだと考えている人もいるようだが、実はそうではない。赤ちゃんが生まれたからこそ、もっときちんとした家庭にしたいという思いが出てきたようだ。しかし、30歳ごろまで名の知れた企業で働き、社会的常識はあると考えている自分の生活スタイルと、妻との生活スタイルの違いも大きかった。雄大被告の友人の話では、優里被告が連れてくる友人は皆キャバ嬢のシングルマザーで、自分の子どもに火のついたタバコを投げ"邪魔!叫ぶな!うるさい!"ということを言うようなお母さんたちだった。雄大としては、そういう友達とは付き合ってほしくないし、同じようなこともしてほしくない。それがDVにつながっていったのではないか」(石井氏)。

■心機一転を図るも「怒りがこみ上げ」…

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 そして結愛ちゃんは香川で2度、児童相談所に一時保護されることになる。2度目の一時保護が解けた後、優里被告はしつけや教育は自分に任せてほしいと提案、雄大被告も一度は受け入れたという。その時のことについて雄大被告は「結愛ちゃんが私に対して敬語を使うようになり、あんまり嬉しくないなと思った。心の距離が離れ、よそよそしいと思った」と振り返っている。

 結愛ちゃんとの関係性が変わる中、雄大被告は東京行きを決断する。「"児相だの警察だのが家を訪ねて、近所からの目もあって迷惑だ"みたいなことを言っていた。じゃあどこに行く?となった時、長く住んでいた東京へ行くというのは、もう必然だったんじゃないか」(雄大被告の知人)。自宅や知人から仕事を紹介してもらえることも決まり、呼び寄せ結愛ちゃんとも再会。公判で雄大被告は「結愛ちゃんが敬語を使うのを止めて、明るくしゃべりかけてくれた。とにかくうれしかった」と話している。しかし、それも束の間の笑顔だった。結愛ちゃんがご飯をいっぱい食べ、勉強もしていなかったことに怒り、虐待が再開。「自分がいないからこそ、きっちりやってくれると思っていた。辛くて、悲しくて、怒りが込み上げてくる感じだった」という論理だ。

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 「普通であれば言葉で、対話の中でやっていくことも、焦りの中で自分の親父を教師にしてしまった。もちろん四国にいる間にも暴力はあったが、実は児童相談所にすぐに引き離されたので、一緒にいた時間は多くはない。雄大被告自身、自分のやり方は間違っている、育児ができないと感じていたし、優里被告からも"しばらく近づかないで"と言われていたので、近づかなかった。また、東京行きの話は結婚前から出ていて、そこに児童相談所が入ってきたということもあり、心機一転しようということだったようだ。 しかし1か月後に会った娘が理想とは違っていた。せっかく教えたものを忘れたと、カーっときた」。(石井氏)。

■高価なランドセルを買ってあげていた

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 しかし、決まるはずの仕事は上手くいかず、無職状態に。そして自宅で結愛ちゃんと過ごす時間が増えたことで虐待は加速。体重を毎日記録させるだけでなく、朝4時に起床、運動や勉強を命じ、目標が達成できないと叩き、蹴る。また、優里被告と長男を連れて外出する際も、"言うことを聞かなかったから"として6畳の部屋でひとり留守番をさせた。結局、東京に来てから亡くなるまで39日間の間、結愛ちゃんは大家への挨拶と2回のゴミ出ししか外に出ていなかったことも明らかになっている。

 「結愛ちゃんのために高価なランドセルを買ってあげたこともあったし、きちんと学校には行かせるつもりだったようだ。しかし入学が近づく中、自分の思い通りに行かない。友達も言っていたが、非常にプライドが高いので、人に相談することができず、自分で抱え込んでしまう。普通であれば、人に頼む、行政に頼むとなるが、それができない。本人も裁判で言っていたが、どうしていいか分からなくなってしまったのだろう。小学校に入学した後であれば、ある程度は行政とも繋がれるだろうと考えていた節もある。本当に、あと数か月だった」(石井氏)。

 また、石井氏は、公判で一家が住んでいた部屋の写真を見たという。「正直な話、あまりきれいではなかった。これは裁判で明らかになったことだが、室内に貼られた"注意書き"は、優里被告が独断で"雄大がそう思っているだろう"と考えて貼ったらしい。それらがびっしり張ってあった」。

■"死亡直前まで衰弱には気が付かなかった"

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 馬乗りになって何度も暴行するなど、雄大被告の虐待は一層激しさを増す。しかも発覚を恐れ、医師の診察も受けさせなかった。公判で起訴内容を大筋で認めた雄大被告だったが、"死亡直前まで衰弱には気が付かなかった"とも主張している。

 そして、最期に側にいたのは優里被告だった。「雄大に、とにかく外に行ってて、とお願いした。結愛にとって、雄大が家にいることがストレスになると思って。結愛に少しでも元気になって欲しくて」。アニメを見せたり、思い出話を聞かせたという。「(午後)2時から3時、スポーツドリンクを飲ませたが、(結愛ちゃんは)1人で動けなかった。グー・パーをさせたらうまくできずに手足が冷たくなっていた。(午後)5時半、"一緒にディズニー行こうね。小学校に上がったら一緒に楽しもうね"と話した。(結愛ちゃんは)まぶたを閉じて、それから2度と開けることはなかった」(検察)。

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 「3月2日に亡くなることになるが、2月25日くらいからまともに食事を取れなくなり、栄養失調で吐いてしまうようになった。その時点でも両被告は病院に連れて行かず、自分たちでなんとかしようと、薬局で飴玉を買ってきたり、バナナを食べさせたりした。痩せていることにそこまで気づいていなかった、命の危険があるとは思わなかったとも言っているが、現実的にそれはあり得ないと思う。どちらかといえば、"そう思いたくなかった"ということだろう。また、彼自身、大麻で捕まって起訴されている。友人の話によれば、雄大被告は大学2年くらいから大麻や当時の脱法ハーブをやっていた。家にそういったものがあれば、当然、行政や警察に見つかってしまうという恐怖もあっただろう」(石井氏)。

 法廷で泣きながら「私が…親になろうとしてごめんなさいという気持ちだ」と述べた雄大被告。結愛ちゃんは今、ふるさとを見渡せる場所で眠っている。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)

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