ニュースやインターネットで上での様々な議論を通じて、「フェミニズム」への関心が高まっている。
広辞苑によれば、「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、性差別からの解放と両性の平等とを目指す思想・運動。女性解放思想」と定義されているフェミニズム。一方、「女性、男性、いろんな性、みんなが平等でHappyな社会を」をスローガンに、匿名での提言活動を行っているフェミニストアートグループ「明日少女隊」の佐多稲子氏は「男性優位社会から女性優位社会に変えるための過激な思想だと言うような人がいるように、フェミニズムに対する誤解があると感じている」と指摘する。
そこで22日のAbemaTV『AbemaPrime』では、「全ての性の平等を願うフェミニズムは社会に必要」という前提に立ち、最近ネット上で物議を醸したケースについて、何が問題とされたのかを検討するとともに、どうすれば建設的な議論に繋がるのかを考えた。
■参加者
宇佐美典也(元経産官僚)
乙武洋匡(作家)
紗倉まな(AV女優)
青識亜論(ネット論客)
千田有紀(武蔵大学社会学部教授)
陳暁夏代(華僑マーケター)
ハヤカワ五味(株式会社ウツワ代表)
フィフィ(タレント)
福島みずほ(参議院議員、社民党)
向井慧(お笑いトリオ・パンサー)
■ケース1:献血PRポスターに“胸を強調したアニメキャラ”
日本赤十字社が漫画『宇崎ちゃんは遊びたい!』とコラボしたPRポスターに対し、“過度に性的なキャラクターを用いたキャンペーンだ”という主旨の指摘からネット上で大きな論争に発展した問題だ。前出の佐多氏は「フェミニスト対オタクみたいな構造に見えるが、オタクを攻撃していたわけでもエロい絵を好きな人を批判していたわけでもなく、公共性の高いポスターで公共性の高い場所に展示されていたことが問題だ」と話している。ただ、16日に開かれたイベント「これからのフェミニズムを考える白熱討論会」では、青識氏が「#KuToo運動」で知られる石川優実氏が討論したものの、両者の溝は埋まらなかったようだ。
青識:言葉での共通合意がなかなかできないという実感を得たところで、なかなか合意までたどり着くのは難しいと感じている。
千田:女性の身体などを物のように扱うことが“女性の性的対象化”だと考えている。このキャラクターが好きな人など、特定の人たちにはすごくアピールできるポスターだろうし、それで献血に行こうと思うということも理解できる。その意味で、日本赤十字社がこのポスターを作った理由も理解できる。一方で、こういう扱いをされるのは嫌だという人がいることも事実。私自身は、そこで合意する必要はないと思っているが、どうして嫌だと感じるのか、その声を聞いていくことが大事だと思っている。世の中には色んな意見があるということをまず、話し合うこと。そのためには、まさにこのような場が必要だ。
青識:このポスターを批判している方の主張は、胸が大きいという“性的魅力”を使って献血に誘導していること、つまり胸を過度に強調し、性的対象化・物化し、道具のように使っていることが問題だということだ。ただ、このポスターに女性を物のように扱っているようなメッセージがあるかといえば、そうではない。また、魅力によって商品の購買に誘導することが性的対象化や差別に当たるというのなら、綺麗な方を使った宣伝は全て物化、差別ということになる。この議論の端緒になった太田啓子弁護士のツイートでは、これがセクハラだという言い方までしている。そこまで言えるのかが私は非常に疑問だし、宇崎ちゃんというキャラクターを愛している人からすれば、それこそがハラスメント、傷つく発言ではないかと思った。ただ、千田先生のおっしゃる、話し合うことが重要というのは共感するところなので、否定的な方々の言葉を聞きたい。
福島:私はアニメのキャラクターやデフォルメされたものを否定するわけでも、表現の自由を制限したいわけでもない。また、広告のアイキャッチに女性が使われることもあるのもわかる。ただ、どうして献血のポスターに胸を強調したキャラクターを使わなければならなかったのか、それがよくわからないということだ。献血は男性も女性もするわけだし、それは表現としてどうだったのか。
最近、フラワーデモや女性たちが性暴力について語り合う場に行っているが、小さい時からスカートめくりや覗き、痴漢の被害にあったという話も聞くし、就活では半分以上の女性がセクハラ被害に遭っているというデータもある。やはり男の子も女の子も小さい時から性的な対象、あるいはからかってもいいんだという空気で育つと、それが当たり前になってしまう。国連の女性差別撤廃委員会は2009年、女性を性的対象として見るステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす商品などについて、日本に対し勧告もしている。今回のポスターについては、これが雑誌ではなく、不特定多数が見る広告だったという点は不適切というか、問題だった。30年前、まさにヌードポスターを貼るということが環境型セクハラとされた。それ以後、職場も変わり、例えば生命保険会社の水着の卓上カレンダー無くなったりした。
ハヤカワ:何が性的対象化の基準なのか、ということがポイントだ。宇崎ちゃんに関して言えば、元々胸が大きいキャラではあるが、原作漫画やアニメではその点がコアなわけではない。そもそもアニメのキャラクターはデフォルメされているものであって、目や体つきが強調されている。その中で、どこからが性的だとみなすのか。場合によっては、アニメ全般の表現が厳しくなってしまいかねない。
フィフィ:胸の問題に拘っているが、胸が大きい=エロい、エロティシズムなのだろうか。逆に言えば、それがステレオタイプになるかもしれないし、"胸の小さい人はエロを感じない" "セクシーではない"と、言っていることにはならないか?私がこの広告が理解できないのは、性的かどうかという点は抜きにして、なぜこれを使ったのか、関係者はよくGOサインを出したな、ということだ。
青識:広告として成功だったか失敗だったかでいえば、オタクを対象にした場所では献血量は実際に伸びている。もちろん炎上したということも深く関係しているだろうが、その点では意味はあったといえる。なぜこのキャラクターを、と福島先生はおっしゃるが、広告的に効果があったとしても否定するのか。
福島:もちろん何を性的とするかは人によっても違うかもしれないし、グラデーションがある。私としては、小さい時から女の子を性的対象として見る、例えば“セーラー服ってエロいよね”みたいなものが空気のようになっている、その土壌を変えたいということだ。
乙武:確かに胸の大きな女性が水着で広告になっていたとたら、過度に性的なポスターだと誰もが感じるだろう。ただ、世の中には胸の小さい女性もいれば大きい女性もいて、それは個人が変えられることではなく、それぞれが自然な、ありのままの姿だ。今回の場合、たまたま胸の大きな宇崎ちゃんというキャラが選ばれたということだったとしても、過度に性的なポスターにあたるのか。
福島:私は宇崎ちゃんを知らなかったが、先入観なくパッと見たときに、すごく胸の大きい子だと感じた。
フィフィ:やはり胸の問題に拘りすぎではないか。例えばアートには胸を出したものもあるが、それらもエッチだと思っているのか。
福島:水着姿の広告もあるし、美術にはヌードもある。そういうものが良くないと言っているわけではない。私は女性がリスペクトされる社会、女の子がいろんな自分の価値観を発揮できる社会になってほしいから、残念に感じたということだ。
陳暁:日本赤十字社の献血キャンペーンは、これまでも『Fate』や『ラブライブ!』などオタク向けのコンテンツとタイアップしてきたし、乃木坂46も使われている。胸の話は終わりにして、元広告代理店の社員として理解できないのは、組織のリスク管理としてどうだったのか、という点だ。このキャラクターは明らかに炎上リスクがある。『Fate』を使ったポスターはめちゃくちゃかっこよかったが、それに比べて今回はコピーでも「センパイ!まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか~?」と煽っている。そういうセリフを言うキャラだということはわかるが、公共の場で不快に捉えられるような表現でもある。やはり知名度が低い段階で使うのであれば、もっとクローズドに使うとか、リスク管理をすべきだったということだ。
千田:リスク管理の意味では、まさにその通りだ。青識さんは献血が増えたとおっしゃるが、逆に献血に行きたくないと感じた女性もいるはずだ。
福島:広告はある種のメッセージで、影響を与える。言葉狩りしたいわけではなく、もっと女性も男性も居心地よく生きていければいいと思っているので、そういう意味では、何を考えているんだろう、という感じだ。
青識:千田先生や福島先生がおっしゃる通り、性的対象化したり、差別的に扱われたりすることが危険だということはよくわかる。その一方で、単に水着の女性がいただけでは差別にならないというのは、まさに文脈に依存しているということ。炎上したものを一つずつ見て、女性から主体性を奪い、胸だけにしか価値がないようなものとして扱っていたのか、というところが議論されるべきだ。その点で今回のポスターは、オタクというかコンテンツを愛する一人のユーザーから見て、やはりフェミニストの言ってることがちょっとわかりづらかった。石川さんとの討論でも、“何がおかしいのか、とにかく言語化してくれ”と聞いたが、最後まで言語化することはできなかった。この“言語化できない”ということを一つの結論として持って帰ろう、ということで終わった。
紗倉:やはり胸が議論の対象になっているが、胸が大きいこと=男子は必ず興奮するもの、という先入観をどうしても感じてしまう。男性は乳首が見えていてもエロくないが、女性はエロいという、その線引きについても、アートかそうでないかによって変わることもある。裸で表現している私としては、それが性的対象化になるという理由がよくわからない。
福島:あれはサイズがいくらだとか、“おっぱい星人”だとか、小さい時から女性はバストが大きいか大きくないかばかり言われる。そういう社会が嫌だし、その“当たり前”を見直してほしいということだ。
フィフィ:結局、誰かの理想や欲求を具現化したものがアニメや二次元の表現だという意識や偏見、嫌悪感が女性の中にあるのではないか。もし仮に生身の女性の水着や、胸が大きな女性だったら、“差別になるかもしれない”と感じて批判に躊躇していたのではないか。
福島:このキャラクターに嫌悪感などはないし、フィフィさんの言うこともわかるけれど、なぜ水着の女性がアイキャッチとして献血のポスターに出てくるのか、必然性がないではないかとは感じたはずだ。
向井:胸が大きいから男性が献血しに行く、と本当に思っているとしたら、男性を馬鹿にしている。
紗倉:男性の性的嗜好を決めつけているように感じる。
宇佐美:こういうキャラを描いたり、好きだったりするのは、どちらかといえば現実の女性に拒否されている方の人たちで、女性と関係の多い人はぶっちゃけて言えば少ないだろう。僕もそちら側だ。そういう人たちが愛する対象としてこういうキャラがいて、自分たちの世界で楽しんでいるだけなのに、どうして現実の世界で、しかも自分たちが関係していない性暴力や性被害の問題に結びつけるのか、という疑問がコミュニティーの中にある。だからこそ議論がすれ違い、ネット上で殴り合いが始まってしまう。
乙武:やはりアニメなのか、それとも実在の女性なのかということでも変わってくるだろうし、“過度に性的”というのも誰から見たものなのか、線引きがしづらい問題だ。
■ケース2:職場での男女の服装・身だしなみの規範に差
職場でのハイヒール・パンプスの着用強制に対する、前出の「#KuToo運動」は今年の『ユーキャン 新語・流行語大賞』にノミネートされるなど、女性の服装・身だしなみの問題もクローズアップされている。また、商業施設の受付、化粧品販売店、老舗料亭など、一部の職場では「冷たい・暗い印象を与える」「華やかさがない」という理由で、女性だけがメガネの着用を禁止されているという指摘も相次いでおり、加藤勝信厚生労働大臣は「男女が同じ仕事内容の場合、男性はよくて女性はダメだというのは男女雇用機会均等法の趣旨に合っていない」と述べている。
陳暁:私はどちらかといえば男性の方がルールが圧倒的に多いことを憂いている。例えば前職では男性はスーツでなければならず、新卒1年目の社員は給料をスーツにつぎ込んで誰も貯金ができていなかった。一方、女性は“フォーマルな格好”としか言われていないので、いわば私服でいい。男性は大変そう、かわいそうと思っていた。
フィフィ:強要するのは良くないが、自分をどう見せるかは人それぞれなので、そこで差が出てしまうのは仕方ない。例えばアパレルならオシャレをして、スニーカーでもいいけれど清潔感やオシャレなものを、言われるのは仕方のないことだし、葬儀場で派手な格好をしないのは当たり前のこと。その中でうまくやれる人が出世する。#KuTooもメガネも、健康上の問題に関わるものを強要してくることは問題だが、レアケースを持ってきて男女差別だと議論することはナンセンス。もし本当に私が強要されたら、会社に対して訴訟を起こす。
福島:連合が調査したところ、ヒールの高さを規制している企業が2割もあり、客室乗務員がメガネを禁止されているケースもあった。コンタクトが合わない人もいるし、拒否したらクビになったケースもあったという。シンディ・ローパーも“私はメガネで成功した”と言っているし、フィンランド航空に友人がいるが、彼女はずっとメガネだ。日本には均等法や労基法にジェンダー差別が入っていないので、アメリカやイギリスのように罰せられない。国会で厚生労働大臣に質問したら、靴やメガネの問題は均等法の趣旨に反すると言ってはくれたが、まだまだそれで裁判するような文化がない。
千田:イギリスではヒールを強制され、血だらけで履けないと伝えると家に帰れと言われた事件が起きたことで#KuTooのような流れが出てきた。また、メガネをトレードマークにして人気が出た女性アナウンサーもいる。
青識:足に健康被害があるにもかかわらずハイヒールを強制するのはよくないし、国がやめさせようとすることを否定する人はそんなにいないだろう。ただ、実際は“暗黙の強要”みたいなものが多く、ヒールのある靴を履くことがフォーマルだと思われるような“社会通念”を変えていかないといけない。まさに#KuToo運動は法制化を求めているが、法の話よりも先にやるべきことがあるのではないか。
宇佐美:男性の目を意識してノースリーブを着てくる女性職員がいた。男性は食いつくし、女性からは文句が多かった。僕は職場の調和のためにもノースリーブはやめてくれとお願いした。生産性を上げるという観点から、ルールが必要な場合もある。
フィフィ:コンタクトよりもメガネの方が合理的な職場もあるのではないか。体質的にその仕事が向いてないという人の場合でも、企業側がそれに合わせろというのは違う。
福島:確かにコンタクトが落ちることもよくあるが、問題は外国のエアラインは男女共にメガネが可能なのに、日本では禁止になっていることが理解できないという話だ。
ハヤカワ:私は、基本的には”誰かの権利が侵害されることがない”という前提に立ちリベラルを主張しているので、どういう服装をしようが個人の自由だと思っているし、それを強要されるべきではない。その上で、世の中的に好まれるものを着るのもブランディングの一つだ。ただ、なにかしらの理由で就労を阻害したり、自由を侵害されたりすることがあれば、そこは慎重でなければいけない。
乙武:議論がごっちゃになっているが、職場で服装の規定をすることに合理性があるかないかという話と、ありとした上で男女差を設けるのに合理性があるかないかの話があり、問題となっているのは後者だろう。
福島:メガネの問題で言えば、職場での女性の働かされ方だ。“癒しの対象”として見られているように思える。それも含めて職場の環境そのものがもっと変わるといい。
青識:安全、衛生上の問題がないのに女性にそういうことが行われているのであれば不平等だ。ただ、企業がそうした対応を取った背景には何があるのかということを考えると、そこには消費者が女性に対してドレスコードを求めているとか、あるいは集客に差が出るといったことに配慮している部分があるのではないか。
乙武:企業は理不尽なクレームであっても受け入れ、その理不尽なルールを従業員に課すべきだということか。
青識:当然、“企業の方針として、我が社では平等という方針だ”と誠意を持って回答するべきだ。ただ、あえてドレスコードを設けているのにはその背景には我々に見えない合理性などがあるかもしれないということだ。
福島:社会通念そのものを見直したいということだ。労働者は快適なところで健康を阻害されずに、もっと快適に仕事ができた方がいい。そのために男女に差を設けるのは明らかにジェンダー差別で、均等法に反する。
青識:そうだ。ただ、私がこういうスタンスをとったのは、社会通念を徐々に変えていくことは望ましいが、国家が法としてやっていくことには否定的だからだ。
乙武:陳暁さんが言ってくれたことに尽きる。#KuToo運動もそうだが、議論の踏み出し方がもったいない。つまり、“女性が”という言い方をするから男性側から反発が起こり、結果的に分断を生んでしまうのではないか。女性の靴も大変だし、男性のネクタイも大変。そういう合理性のない服装の縛りは男女共にやめていこうと提唱していたなら、もっと賛同者も増えたのではないか。
■ケース3:「“ツイフェミ”をフェミニズムと一緒にするな」
視聴者からは、「女性としてもネットのフェミニストには迷惑している。フェミの皮を被った、男性を嫌悪する“ミサンドリスト”だ」、あるいは「今まで男性とバランスとってうまく生きてきたのに、問題が顕在化されると逆に肩身が狭くなる」「女性差別に声をあげなきゃ意識低いといわれる…物言う女の圧力が怖いよ」「議論を呼ぶことは、女性のためと言いつつ女性のためになってないことをわかってほしい。余計なお世話」といった意見もある。
千田:これは昔からある議論で、新しいものではない。むしろフェミニズムが当たり前になってきた結果、フェミニズム、フェミニストと言わないと遅れていると思われるようになったのが新しい現象だろう。私自身は、私自身は、フェミニストは女性の権利だけを主張する人ではないと考えている。例えば東京医大の入試問題のように、女性だけを落とそうとしていたことが良いことだと思っている方はここにいるだろうか。そう考えるとアンチフェミニストの気持ちはよくわからないし、みんながフェミニストなのではないか。
乙武:僕なりにわかりやすい言葉に置き換えてみると、男女同権、男女平等には賛同できても、いわゆるツイフェミと呼ばれる方々が女性至上主義のように受け取られ、ウザい、あいつらなんなんだ、という反応になっている気がする。女性だけでなく男性も苦しんでいる状況があるのなら、両方についてを提示してくれればいいのに、なぜ女性のことだけ言うのか、そこに疑問を持つ人もいるということだ。まさに女性だけが明らかに不利な状況にあった東京医大の問題だったら反論する人は誰もいない。ポイントはそこだ。
福島:確かに140字のツイートでは十分に伝わらないし、誤解もある。ただ、いちいち男性のことを言わないとバランスが取れない、という話ではなく、自分が辛いと思ったら辛いと声を上げられることが重要だ。
乙武:「女性」を「障害者」に、「男性」を「健常者」に置き換えてみると、僕が21年前に『五体不満足』を出し、声をあげてきたことに対して言われ続けたことと同じだ。「今まで健常者とバランスとってうまく生きてきたのに、問題が顕在化されたことで肩身が狭くなった」「議論を呼ぶと障害者のためと言いつつ、障害者のためになってないことをわかってほしい。余計なお世話だ」。散々言われてきたことだ。
福島氏:今までみんなが当たり前と思っていたことに異議申し立てをするわけだから、トラブルメーカーだと思われかねない。”これが問題だ、これが嫌だ、これは差別ではないか" と主張すると、“言い方が悪い、もっと男のことも考慮して、うまくバランスを取れ”と言われてしまう。でも、本当に思っていることだったら言ってもいいはずだ
フィフィ:女性や障害者も、最初から“弱者”と位置付けられているからこそ、“キツく当たるのか”と言われたり、“男に媚びてるのか”といった反応が出て来る。そもそも男女は平等でなくてもいいと思っている。そもそも性差があるので、平等にはなり得ない。ただ入試の問題など、機会は平等に与えられるべきというのは誰もが一致できると思う。
また、最近、女子生徒が生徒会長になりたがらないという記事を読んだ。日本でも機会を与えられてはいるが、“他の女性に目立っていると思われるのが嫌だ、女性が出しゃばるとモテない”など、女性同士の間にも古い感覚が残っていると思う。福島先生もそういう経験あると思うけれど、政治に物申す女性はなぜか怖がられる。また、男性が女性に持っている意識についても、女性側が気にし過ぎているのかもしれない。そういうことはいくら制度が変わったとしても、子育ての段階から変えていかない限り、追いついてかない。
福島:確かに、法制度以外の部分で、意識の問題もある。“かわいくないと思われたくない。怖いと思われたら嫌だ”など、自主規制してしまう。でも、それはもったいない。男並みになりたいということではなく、女性も男性も居心地のいい社会にしたいということだ。
陳暁:私は大学で学生会の会長をやっていたが、中国では仕事においても生活においても男女差はそこまで存在しない。アカデミズムの領域でも男女が均等にいる。日本では40年くらい前に均等法ができたが、今の40代以上の方々は世間で辛い思いをした方、戦ってきた方がいる。この話題がこんなに大きくなったのも、まだまだマイノリティなワードだからであって、いきなり“平等になれ”と言われてもみんなパンクしてしまう。やはり本質的なメンタル改善は徐々に5年くらいかけて、段階的にやっていく必要がある。
ハヤカワ:ここで“男女平等”というのが話をややこしくしている。国連ではSDGsといって、サステナブルな世界にしていくために目標を作ろうという議論があるが、その中では“ジェンダー平等”と言われている。これは男女ではなく、社会的な性の平等だ。これが的確だろう。
乙武:ハヤカワさんが言ったことは障害者も同じだ。年齢の問題についても、少しずつ壁を壊していく方が誰もが生きやすい社会に近づいていく。もちろんそれを国会の場で法律からやっていこうとするのが筋だろうし、人々の意識が変わっていかないと色々なところでハレーションが起きるのも青識さんが言った通りだ。どちらが先か、ではなく、両面から進めていくことが大事だろう。実を言うと、今日もっと激しいハレーションが起きると思っていたので、社会人になって初めてズル休みしようかと思うくらい、気が重かった(笑)。でも、思った以上にみんなが相手の意見を踏まえて発言をしたので、非常に良い議論ができたと思う。福島先生がおっしゃったとおり、140文字でこれを議論しようとすると、どうしても言葉も乱暴になるし、説明を端折ったりする。こういう場でじっくりと語り合えたことは大きかった。
紗倉:今は“個の時代”と言われているが、個々の能力を尊重する上で、性が足かせにならない時代に持っていくのが大事だと思った。(AbemaTV/『AbemaPrime』より)
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