高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
【映像】ABEMAでみる
この記事の写真をみる(12枚)

 震災から9年、復興予算で造られた住宅地にポツンと建つ一軒家。三陸・リアス式海岸の高台に「限界集落」が生まれている。

 「誰もいねえんだもん、だいたい。しゃべる人いねえべっちゃ」「だからもっと早く決めてもらえれば、帰りたかった人も帰れたんでないかなあ」「高台が早くできれば、残った人ももっといたのね」「誰もいなくなっちゃった…」と住人たちは口々にこぼす。

 国が掲げたのは、震災前に戻すのではなく、未来に向けた街を作るという、は“創造的復興”だった。政府は「単なる復旧ではなく、未来に向けた創造的復興を目指していくことが重要であります」(菅総理)、「未来に向けた創造的復興を目指して」(枝野幸男官房長官)と語り、そして後の安倍総理も「まさに創造的復興に向けて」と訴えていた。しかし現在、被災地には国が示した青写真とは違う現実が広がっている

■3億3000万円をかけた造成、しかし住民が離脱する結果に

高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
拡大する

 宮城県石巻市は、東日本大震災で3552人が亡くなり、420人が行方不明、沿岸部を中心に5万棟を超える建物が被害を受けた。新たな街ができ、落ち着いた暮らしを取り戻す地域も出てきた一方で、存続が危ぶまれる地域が雄勝町だ。震災前、分浜地区では43世帯が暮らしていたが、今ではほとんどが更地のまま放置されている。

 津波で自宅を失った木村さん一家は、復興予算で造られた高台に一軒で暮らしている。83歳になる木村栄五郎さんは「今、誰もいねえんだもん、だいたい。しゃべる人いねえべっちゃ。いねえから、今、こっち寄ってお茶飲めえなんてさ。車で迎えさ来っから、来たいなら来いなんて言うけど、まさかな、お茶飲ましてもらいに行ったって、しょうがないからさ」と苦笑する。

高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
拡大する

 一家の大黒柱である勝雄さん(59)は、ホタテやカキの養殖を手掛けている。津波で船も漁具も流されたが、水産加工会社の支援を受けて再開にこぎつけた。だが、浜にかつての賑わいはない。「(誰も)いねっちゃや。だって一軒家だべ」。

 実は当初、9軒が高台への移転を希望していた。「こういうふうになると思わなかったな。皆ここさ何軒か建てんでないかなと思ってたのさ。だけども、もう分浜の方さなんか来ないなあと思って。もう待ちかねて、土地買って家建てて入って、行ってしまったんだべ」と勝雄さん。玲子さん(58)も、「だから、もっと早く決めてもらえれば、帰りたかった人も帰れたんでないかなあって思うんですけど」と分浜地区を見つめる。

高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
拡大する

 震災後、分浜は地区のほぼすべての場所が、「災害危険区域」に指定され、住宅の建設が禁じられた。その代わり、自治体が高台に宅地を造って提供する、「防災集団移転・促進事業」が復興予算で進められた。およそ3億3000万円の造成費用をかけ、集落に隣接する0.7へクタールの高台が切り開かれた。結局、完成したのは震災から5年後。この間に多くの住民が分浜を離れたのだ。

 自治会長を務めていた、青木虎三さん(85)もその一人だ。今は分浜から車でおよそ1時間、田園風景の広がる石巻市の内陸に一軒家を建てて暮らしている。「4、5軒でも残っていれば、私も残りました。とにかくもう少し速くしてほしかったということですね。あとやっぱさみしいって感じですよね。福島で自分の住んでいるところを追われた人たちの気持ちがわかるような気がするね。週2回くらい海に行ってますんでね、見て、懐かしいっていうか。ご覧の通り、誰も人、一人もいないでしょ。さみしいんだ、だからね」と寂しそうに語る。

■東京から移住・結婚するも公営住宅には住めず…

高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
拡大する

 太平洋に突き出した宮城県牡鹿半島にある浦地区。震災前には65世帯が暮らしていたこの集落も、存続の危機に瀕している。ここでも高台への集団移転事業が進められ、当初は24軒が移転を希望したが、土地の選定などに時間がかかった結果、最終的には5軒だけになってしまった。山林1.6ヘクタールの造成費用は1軒あたり7000万円を超えたが、5軒のうち2軒が桃浦を離れたため空き家になっている。

 床上浸水した自宅を直し、一人で暮らしている甲谷強さん(91)は「すべて不便になったね。だいたい郵便ポストがないでしょ。うちが少ねえから作ってくれねえんだ。高台移転は失敗。良いこと何もねえんだ。なんであそこに、あんな経費かけてやったのかなと」と首を傾げる。

 「やっぱり俺たちは海で暮らしたもんだから、海以外は何も知らんでしょ。陸の仕事なんてのは全然知らない」。15歳で漁師になって76年、今も時折、海に出ることがある甲谷さん。しかし港に戻るたび、現実を突きつけられる。「誰もいないよ。以前は船が入ったら見に来るもんだから、“ほら持ってけ”って取ったものをくれてやったり、そういう生活をしてたんだ」。集落存亡の危機をなんとか打開しようと、甲谷さんたちは桃浦へ移住する人を募るため、漁師の体験会を始めた。これまでに12回、およそ110人が参加した。

高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
拡大する

 地区の忘年会に、体験会の一期生の姿があった。桃浦にある水産加工会社で働いている、東京出身の太田秀浩さん(48)だ。復興イベントで知り合った群馬出身の加代さんと去年11月に結婚した。しかし、同居はできずにいる。「そもそも家が残った所はほとんどない状態で、平地も災害危険区域に指定されて、建物を建てることができないので、今のところ2人で住む所のあてがない状態なんですよね」と明かす。

 高台にある公営住宅は空き家となっているが、被災者以外が入居する場合は一定の収入以下でなければならず、太田さん夫妻は対象から外れてしまうのだ。漁師体験のアンケートでは34人が「桃浦に住みたい」と答えたものの、実現したのは2人だけだ。

 「人が住まなければ復興にはならないんだ。いくら岸壁ができたって、道路ができたって言っても、人が住まないことには復興にはなんねえと思っているよ」と甲谷さんはこぼした。

■設計変更に次ぐ設計変更、人口流出…

高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
拡大する

 もともと過疎化が進んでいた石巻市。桃浦のある荻浜地区は震災後およそ4割に、分浜のある雄勝地区は3割へと人口が激減した。一方、震災から1カ月後に開かれた国の会議の資料には、こんな高らかな決意が躍っていた。「単なる復興でなく、創造的復興を期す」「高台に住宅・学校・病院を」。防災集団移転は創造的復興を象徴する事業と位置付けられ、希望に満ちた青写真が描かれていた。

 「防災集団移転・促進事業」は総額5600億円をかけ、宮城や岩手など4県の324地区で進められた。それまでの災害では、地元自治体が費用の4分の1を負担していたが、東日本大震災では実質ゼロとされた。10戸以上としている「集団」の定義も5戸以上に引き下げられ、潤沢な復興予算を元手に特例を設け、被災者の希望にきめ細かく対応する狙いがあった。

高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
拡大する

 しかし蓋を開けてみると、人口流出が加速した。宮城の事業計画を審査した東北工業大学の稲村肇名誉教授は「予算がたくさんあったからこそ、どこでも早くできる所ならどこでもいい。しかし急ごうとするとどうしても、地権者の少ない山みたいな、特に小規模な山、三陸沿岸では多いわけですけれども、そういうところを候補地にしてしまう」と指摘する。

 特例の結果、小規模な団地が乱立し、かえって事業を遅らせることになったのだ。「当初の設計が悪かったというのが最大の理由だ。詳細設計やると“とてもこんな坂、車が上れない”とか“こんな崖じゃ危険でしょうがない、がけ崩れが起こる”とかそういうことがあって、設計変更に次ぐ設計変更になった」(稲村名誉教授)

高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
拡大する

 「防災集団移転促進事業」は現実には「限界集落促進事業」だったのではないか。当初のイメージと現状が乖離していることについて、国の担当者は「特に沿岸部のリアスの所では平地が少ないので、必ずしもイメージ通りにならない所が多かったことは事実です。住民の意向に沿った制度、結果としてそういう集落ができたという面もあるとは思いますけども、必ずしも限界集落を我々が作ったということではないかと思っています。やっぱり人、被災者の方々に寄り添ってやった結果かなと思っています」(国土交通省都市安全課・鈴木徹氏)と説明する。

 この特例の結果、全体の3割は10軒未満の小規模団地となり、空き区画も目立つようになった。被災者以外にも分譲することで空き区画はおよそ300カ所、全体の4%に抑えられているという。しかし、空き家もあり小さな高台には無視できない影響がある。「10年経てば150のゴーストタウンと、50ぐらいの新しい街ができるんじゃないですか。それによって、どういう移転事業がそれなりの成果を上げて、どういう移転事業が莫大な公共予算の無駄遣いに終わるか、それが決着すると思うんです。そのプロセスを含めて、私たちは残していかなきゃいけない」(稲村名誉教授)

■「被災前から住民主体で話し合いと活動を」

高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
拡大する

 「漁業を中心とした暮らし」「海と山がせめぎあうリアス式海岸」「津波に襲われてきた過去」。東日本大震災は、そんな共通点を持つ全国の港町に衝撃を与えた。徳島県美波町もその一つだ。自主防災会連合会の酒井勝利(57)会長は「そりゃもう全然ね、意識は、津波に対する意識は変わりました」と話す。

 震災前の三陸沿岸とよく似た同町由岐湾内地区では、東日本大震災の教訓をもとに予め高台を整備するという挑戦を始めている。仮に南海トラフ地震が発生した場合、津波の第1波到達までわずか12分。津波高は最大で12.3m、地区の99%の建物が浸水被害に遭うと想定されている。

 地域が抱えるリスクとどう向き合うか。皆で議論を重ねたが、危険性が浸透するほど、住民が地区を離れるジレンマに陥った。すでに若い世代が家を構えるのを機に内陸の町に移ってしまうため、震災前に1600人近かった人口は、1200人を切っている。それでも酒井さんは「景色いいし、環境ええしね、まず人のつながりがええし、玄関開けとったら泥棒入ってくるんじゃなしに魚か何か放り込んこんできてくれて。そういう風習がありますよね。そういうところが私ら好きですね」と、この町を守っていく決意だ。

高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
拡大する

 徳島大学の学術研究員・井若和久さんは、東日本大震災を目の当たりにして起きた人口流出を「震災前過疎」と名付け、地区に移り住んで解決策を模索してきた。そして、被災を前提に将来のまちの姿を考える「事前復興」という試みにただおりついたたどり着いた。「次世代の若い人に残ってもらうためには、まず安全な住宅地を造れる場所を皆で探して、開発できるところまで頑張っていこうよ、と」。

 地権者の協力を得ながら候補地6カ所を選び、地形や地質、アクセスなどの観点で評価。造成費用の確保など、実現には課題が残るものの、万が一震災が起きてしまったとしても、住民が重ねてきた議論は復興の速度を速めると期待されている。「本来はまちづくりも復興も、住んでいる自分たちがこういう町にしたいとか、こういう町だったら住み続けたいという思いを形にしていくのが最も納得感も幸福感も高いし、責任感も生まれてくると思う。そのためには被災前から住民主体で話し合いと活動をしておく必要があるということを、東北の被災地に強く教えられました」(井若さん)

■「何十年、何百年後になるかわからないけど、復活しますよ」

高台にポツンと暮らす一家、集落の再興を願う漁師の思い…国が描いた「創造的復興」の誤算
拡大する

 あの日から9年、海と山に抱かれた暮らしは続いていく。「昔ここにいた人たちが戻ってきたいなあって思えるような所であれば良いかなあと思うんですけど」(木村玲子さん)。「1軒だったら、違う所にしようかなとは思わなかったですか?」との問いに、「思わねえな。やっぱ分浜、良いもの」と即答する勝雄さん。

 甲谷さんも力を込める。「みんな山のもの、畑のもの、海のもの取ったもので生活してたんでね、ここはもう十分生活できるんでね。これから何十年、何百年後になるかわからないけど、ここはね、また元のように復活しますよ」。

 一方、「新しい東北の創造に向けて、全力で取り組む決意であります。困難の日々を胸に刻みながら、被災地の皆さんと力を合わせ、新しい東北の未来を切り開いてまいります。東北の復興なくして日本の再生なし」と語った安倍総理。「復興」がもたらした集落存亡の危機。「新しい東北」の姿は、まだ見えていない。(東日本放送制作 テレメンタリー『高台はできたけど~復興事業の誤算~』より

高台はできたけど~復興事業の誤算~
高台はできたけど~復興事業の誤算~
イチエフの町で起きる
イチエフの町で起きる
遺品を故郷へ ~地下壕に眠る生きた証~
遺品を故郷へ ~地下壕に眠る生きた証~
この記事の写真をみる(12枚)