生き別れた母を探す旅 米兵と日本人女性の間に生まれ、5歳でアメリカに渡った女性の66年
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 去年の10月、ある女性が66年ぶりに来日した。バーバラ・マウントキャッスルさん(71)。「私は少女のときに日本を離れ、老女として戻ってきたの」。「木川洋子」という日本名を持っていたバーバラさんは5歳のときに養子縁組され、アメリカへ渡った。

・【映像】ドキュメンタリー『母をさがして ~養子縁組で渡米した洋子~』

 差別、虐待の日々の中で心の支えだったのが日本にいる母の存在だった。生き別れた母を探す旅を見つめた。

■母と同姓の大学教授に突然届いたメッセージ

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 母親探しの始まりは、おととし8月にさかのぼる。和歌山大学観光学部の木川剛志教授のフェイスブックに、突然「キガワ・ノブコという女性を知りませんか?」というメッセージが届いたのだ。

 差出人は、アメリカに住むバーバラさんの娘・シャーナ・マウントキャッスルさん。母の日本名と同じ「キガワ」を検索し、手当たり次第に連絡をしているという内容だった。「そういうことには興味がある方だったし、研究者なので、やれるだけのことはやろうと思いました」。偶然の巡りあわせに運命的なものを感じた木川教授は、その年の11月、アメリカに飛んだ。

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 バーバラさんが暮らすカウボーイの町・テキサスで初めて顔を合わせた2人。「日本で覚えていることは?」「お母さんがご飯を作ってくれたこと。家に井戸があったこと」と記憶をたどる。

 「厳しい環境でも、母との生活は幸せだった。守られている感じがあった」。1947年11月に神奈川県横須賀市で生まれたバーバラさん。母の名前は“信子”で、父はアメリカ兵だったとみられるが、はっきりしたことはわからないという。

■アメリカ兵と日本人女性との間に生まれた子どもは5000人以上とも

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 終戦後の日本には約40万人の占領軍が進駐、アメリカ兵と日本人女性との間に生まれた子どもは全国で5000人以上とも、1万人ともいわれている。一方、そうした子どもへの差別が根強い時代。「祖父は怖くて、私の背中にはタバコを押し付けられた痕がある。私のことを嫌っていたと思う」。

 困窮を極める生活の中、バーバラさんは児童養護施設に預けられ、さらに「国際養子縁組」によって、あるアメリカ軍将校の養子になることが決まった。大切に保管していた当時の新聞記事には、5歳の頃のバーバラさんが写っており、「木川洋子ちゃんだけが、ドナルド中尉夫妻の養女として許された」と綴られていた。

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 占領軍と日本人女性の間に生まれた子どもたちは、望まない形での誕生もあったとされ、孤児になったケースも少なくないという。横浜市にある、1000人以上を受け入れた児童養護施設の資料を見ると、父親の欄には「アメリカ」、そして「その後の消息は不詳」と、行方をくらましたケースが多かったことを伺わせる。

 一方、子どもたちの受け入れ先になったのもアメリカだった。アメリカは1953年、日本人女性との間に生まれた子どもを養子として迎えることを認めた。「軍の人が流行のように“私が里親になる”“面倒をみる”と集まった。私も“この赤ちゃんを養子にどう?かわいいでしょう”といつも言われていたそう」。善意あふれる兵士がいた一方で、中には「特別手当がつくから」と口にした者もいたという。1963年までに全国で少なくとも700組以上の国際養子縁組が成立したが、海を越えた子どもたちの総数は明らかになっていない。

■渡米後に待ち受けていた差別、養父母からの虐待

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 アメリカに渡る前、信子さんは何度も会いにきてくれたという。「私が“置いていかないで”と泣くと、母は“心配しないで、迎えに行くから”と」。しかし、それが母と交わした最後の言葉となった。

 アメリカでの新しい生活は、苦難に満ちていた。敵国だった日本からやって来た少女に対する差別。さらに養父母からは虐待を受け続けた。「“ジャップ”と呼ばれて、誰も遊んでくれなかった。(学校に行っても)英語が上手く話せず、友達もできず、長い間、悲しい毎日だった」。

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 ようやく幸せを感じられるようになったのは、19歳で子どもを授かってからだったという。4人の子どもを育て、今では12人の孫に囲まれる。「苦労はたくさんあったけれど、薬や酒に溺れることもなく、自分を強く保ってきた。母が望む姿の私になりたかったから」。

 しかし信子さんの写真は無く、顔の記憶も薄れていく。人生を振り返る年齢になった今、信子さんへの思いは日に日に強くなるばかりだった。「もし存命なら、もちろん会いたい」

■“お母さんを見つけたよ、ずっと一緒だったよ”

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 自らも5歳の子を育てる木川教授は、そんなバーバラさんの思いを受け止め、信子さんの痕跡を探し始めた。委託を受けて戸籍の写しを取得、そこに記録された住所をもとに、住民への聞き込みを続け、母子が暮らしていた場所が横須賀市秋谷という町だったことを突き止めた。

 現地に何度も足を運び、信子さんを知る人たちにもめぐり合った。「信ちゃんね。よく遊んで学校も一緒に行ったんだけどね。いつの間にかいなくなっちゃったね」(信子さんの幼馴染だという女性)、「にこやかな顔よね、なんか笑い顔っていうの?」(信子さんの元同僚)。しかし情報を集めた結果、信子さんは東京・八王子に移り住み、1987年に61歳で亡くなっていたことがわかった。

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 それでもバーバラさんは、子どもを連れて日本に行くことを決意した。5歳でアメリカへ渡ってから66年ぶりに降り立つ日本。車窓の景色に「故郷を感じる。美しいね」。向かったのは信子さんの墓所。花を供え、手を合わせたバーバラさんの目から涙が溢れる。「きっと母も長い間、私のことを考えていたと思います。苦しかったと思います。“安らかにお眠りください、私はお母さんを見つけたよ、ずっと一緒だったよ”、と伝えました」。

■母を知る人たちから次々と証言が

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 そして生まれ故郷、美しい海辺の静かな町・横須賀市秋谷へ。かつて暮らした母の実家の記憶は無かったが、家屋の裏手にあった井戸を目にすると、「覚えているのはこの井戸。丸かったと思っていた。よく見たら中の方は丸いでしょう。覚えているのと同じ」。さらに獅子舞の頭を見て、「長い竜が出てきたお祭りを覚えている。人が中に入り、前後に揺れていて。近づいてきて、とても怖かった」。少しずつ、故郷の景色が蘇ってくる。

 生まれ故郷の町内会館にも足を運んだ。集まってくれた地域の人たちが「トラックにアメリカ兵が乗っていると怖かったです」「あの頃は砂利道で、外国のトラックやジープが走ると、埃が舞って」と、戦後まもない町の雰囲気を語り始めると、バーバラさんも「砂利道を裸足で歩いたのを覚えてる」。

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 その中に、信子さんのことを知っている人がいた。ある男性が「頭やってもらったんだ」と、バーバラさんの祖父が理髪店を営んでいたこと、そこで信子さんを見たことを明かすと、「そういう話、私も聞きましたね」「息子が信子さんに刈ってもらったことありましたよ」と、次々と記憶が蘇る。さらに男性は「信子さんが外国人と交際してることはわかってました。でも、お子さんがいるってことは…。私も15、6だったから、詳しいことは分からない」とも語った。

 初めて知る母の姿。町で祖父を手伝っていたとき、進駐してきたアメリカ兵と出会い、バーバラさんが生まれたようだ。「たくさんの情報と物語がありました。感謝します。皆さんのサポートは心に響きました」とバーバラさん。預けられていた児童養護施設も訪れた。建物は建て替えられ、当時の面影はない。それでも「細かいことはたくさん覚えている。ベッドに蚊帳が付いていたこと。ここの人たちの優しさ」。

■ついに見つかった信子さんの写真

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 さらに木川教授は、信子さんとよく遊んでいたという天都カネ子さん(95)の家にバーバラさんを案内した。天都さんはバーバラの姿を見るなり、「あぁ、やっぱりそっくりよね、あんた、そっくりだわ。懐かしい」と歩み寄り、抱き寄せて涙を流した。「何十年も経っちゃったもんね。でも面影はいっぱい…。そっくりね、よく似てます」。

 「聞きたいことがいっぱいあります。母はどんな性格でしたか。優しかった?いい子だった?」と尋ねるバーバラさんの手を握り、天都さんは「優しかった。よくおしゃべりしました。生きてるってすごいねー、すごい」としみじみと語った。

 さらに信子さんを知る新倉すみこさん(94)も、「お母さんと同じ顔。そっくりよ」。町の人々から伝わってきた、亡き母とのつながり。そして旅の終わりに、思いがけないことが待っていた。信子さんが生前働いていたパン工場の同僚の久保公恵さん(74歳)が、あるものを持って駆けつけてくれたのだ。

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 久保さんが「ビッグニュースがあるの。サプライズなの。素晴らしいことがあるの。見つかったのよ、写真が。ほら」と取り出した1枚の写真。「ここ、この方。私も奇跡だと思う」と示した和服姿の人物。信子さんが確かに写っていた。

 「これが私のお母さん!とてもうれしい。私は母がどんな顔をしているのか知らずに生きてきました。唯一の親だから、必死に顔を思い出そうとしてきたけど、できませんでした。救われました」と涙を流すバーバラさん。木川教授は「バーバラさんがお母さんのお墓参りをして、その面影を実際に得ることができた。この1年間、やってきてよかったなと思いました」と話していた。

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 番組にバーバラさんの家族から届いた映像。バーバラさんが「私のベッドルーム。このブランケットはクリスマスに子どもたちからもらったもの」と見せてくれたブランケットには、故郷・横須賀の写真が散りばめられていた。ともに日本を旅した子どもたちからのプレゼント。そこには信子さんの着物姿もあった。

 日本で生まれ、海を渡った少女。家族と共に今を生きている。日本の母を思いながら。(朝日放送テレビ制作 テレメンタリー母をさがして ~養子縁組で渡米した洋子~』より)

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