原爆の物言わぬ証言者・「旧陸軍被服支廠」をめぐって揺れる広島…“被爆建物”の意義と保存の難しさとは
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 原爆の爆心地から南東におよそ2700mのところにある旧広島陸軍被服支廠(広島市南区)。1913年、軍服などを製造・貯蔵する施設として建てられた。現在、2つの学校や集合住宅などがある場所もその敷地の一部で、北側には工場や事務所などが集まり、南側には約10棟の木造倉庫が並んでいた。

・映像:揺れる平和都市 ~被服支廠は残るのか~

 現存するのは、約100m・高さ15m超の赤レンガ倉庫4棟だ。戦後、学校の臨時校舎や運送会社の倉庫などとして利用されてきた。空き家状態となった1995年以降は、博物館や美術館の分館などとしての活用が検討されが、財政負担が大きいため、実現を見ないまま存続してきた。

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 「84億円は県財政にとって非常に大きなインパクトがありそう簡単に捻出できるものではない」。そう主張する広島県の湯崎英彦知事に対し、「できる限り全棟を保存していただきたいということを市は伝えてきている」と訴える広島市の松井一実市長。現存する最大級の被爆建物を取り壊すのか、保存するのか。広島が揺れている。

■「“痛い、痛い”という叫び声で寝られなかった」原爆投下直後には救護所に

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 広島市生まれの小笠原貞雄さん(93)は17歳の頃から、この被服支廠で仕事をしていた。「私はミシンの据え付け、修理をやっていた。広いんですよ。1つの部屋にミシンが80台、アイロンを掛ける人が20人。女の人が100人、6班ぐらいあった。全部で600人から1000人近くの人がいた」。

 原爆投下時は出張中だったため被爆を免れた小笠原さん。翌朝、被服支廠に戻ってみると、倒壊を免れた倉庫には多くの被爆者が押し寄せ、救護所になっていた。「何列も毛布を引いて収容したんです。最初の晩はここに寝泊まりしたんですが、うめき声と、“痛い、痛い”という叫び声で寝られなかった」「うめきよった人が静かになったから、少しは楽になったかなと思うと、それは死んでる人。長く置いておくと、連鎖反応で死ぬ。だから死体は降ろして、周辺で焼きました」。

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 当時12歳だった少年が描いた絵には、大きく掘った穴の中に遺体が投げ込まれ、火葬される様子が描かれている。「上官が“焼け具合を見とれ”と。“骨はどうしますか?”と聞いたら、“そこらに捨てとけ”と。はじめは“頭こっち”とか、“女の人はこっち”とやって焼いていたけど、だんだんそんなこともしとられんようになった。しまいには人間という感覚もなくなりました。油をかけて燃やして。哀れなもんです。“ごめんね”、と謝る以外、何もできないですね。そうせざるを得なかったですからね」(小笠原さん)。

 被服支廠で一緒に働いていた面々の消息は、今もわかっていないという。

■“軍都”広島を象徴…「戦前、戦中、原爆、戦後の“物言わぬ証言者”」

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 15歳のときに被服支廠の近くで被爆した切明千枝子さん(90)。母親は被服支廠で経理の仕事をしていたので、子どものころは構内にある幼稚園に通っていました。「全館暖房なんですよ。至れり尽くせりだったですね。子どもが何人いても辞めないで勤められる。そんなシステムになっていたんですね」。

 被服支廠の周辺には、武器や弾薬を製造する兵器支廠、食料を管理する糧秣支廠(りょうまつししょう)もあった。広島駅と宇品港を結ぶ軍用鉄道が敷かれ、一帯は戦力や物資を戦地に送る軍事拠点となっていた。

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 当時の雰囲気について「まさに“軍都”ですよ。“陸軍三廠”と言っていて、女学校になってからは動員で全て行かされましたからね。いま考えたら、体のいい“派遣社員”だったなと思います」と話す切明さん。

 被服支廠の建物について「戦前、戦中、原爆、戦後、この歴史をずっと見てきた、体験してきた、“物言わぬ証言者”だと思っていますよ。あの4棟のすごい迫力。私は1棟だけ残しても意味がないと思う」と話した。

■技術面と資金面から保存が難しい「被爆建物」

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 老朽化などを理由に減少が続く被爆建物。この20年で11件が姿を消し、爆心地から5km以内に残るのは86件となった。平和公園になっている場所は、かつて繁華街だった。近くで暮らしていた高松翠さん(87)は「(訪れた人に)公園だからよかったですね、って言われるそうですから。そうじゃないんだって。ここでみんな一所懸命に生活していたんだということを知ってほしいと思います」と話す。

 6月末には平和公園に残る被爆建物(現レストハウス)が改修工事を終えた。1929年に呉服店として建設され、爆心地から170mにあったため、助かったのは地下にいた1人だけだった。改修では事前の調査で判明した以上の劣化があったことから、市は約2億円の費用を増額した。

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 あの原爆ドームも、実は解体する声が上がりながら存続が決まった経緯がある。しかし今、後世に残す難しさに直面しているという。保存工事を担当した経験を持つ清水建設の山田敏明さんは「破壊された建物を破壊された状態で保存するのは、非常に特別な工事になります」と説明する。

 技術者不足や工法が限られることから費用が折り合わず、昨年行われた入札は3回連続で不調に終わり、ようやく落札されたのは今年の7月だ。広島市の当初の予算から、およそ1.4倍に増額され、今月の完了を目指していた保存工事は大幅に遅れている。

■県、国、市が3年にわたる協議も決着を見ず

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 県は昨年12月、県議会に被服支廠の活用案を提示した。4棟のうち3棟を県、1棟は中国財務局、つまり国が所有。県は自らが所有するうち2棟を解体し、1棟のみ外観を保存するという計画を打ち出したのだ。「苦渋の決断をしたところであります。安全対策は喫緊の課題であるという認識のもと、被服支廠が有する価値を認めつつ適切な規模を保存したい」(県の担当者)

 被爆者団体や市民団体からは、すぐに見直しを求める声が上がった。被服支廠で被爆した中西巌さん(90)は「はらわたが煮えくり返るような気がする。最小限の費用で処分をするということではなくて、最大限の努力をして最大限の保全をするべきだ」と訴える一方、県の担当者は「安全対策が一番。平和(を優先した結果)で、誰かがケガをする、亡くなる、ということはあっちゃいけない」と述べ、耐震性に問題があることを説明した。

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 県では2016年以降、国、そして平和行政の経験が豊富な広島市と何度も非公開で協議を続けてきた。情報公開請求で入手した238ページの記録には、県が当初、国の支援を見込める「文化財指定」を探っていたことがうかがえる。しかしその1年後、建物の老朽化の程度が明らかになったのだ。

 2018年2月6日(7回目)の協議では、「震度6強の大地震が発生すれば、倒壊する危険性が高い」とした県側に対し、国は「県が保存会を説得するのであれば壊せるが、中に入れない建物の活用策はないのではないか」と応じている。保存のためには外観のみでも1棟5億円、人が入れるようにするための耐震化には1棟28億円が必要と試算された。県が所有する3棟すべてを耐震化すれば最大84億円かかることになる。文化財指定に必要な活用策も見いだせず、協議は行き詰まりを見せる。

■鮮明になる3者の立場の違い

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 去年1月22日(9回目)の協議では、県が「市が主体となって保存に取り組むのが一番良いと思うが課題は財源か」と尋ねると、市は「そうだ」と回答。また、国側が「そろそろ外部に意見を求めるなり、活用策を考えていく必要があるのでは」と水を向けると、県は「外部委員会を立ち上げたところで、コスト度外視の心情ベースの結論が出され、全棟保存の流れが加速するだけだと思う」と指摘。市も「外部委員会を設けても、世論の声に押され、まとめるのはなかなか難しい」との認識を示した。

 そして11月、最後の協議が開かれる。県が「3棟とも壊すと言っているわけでは決してなく、“1棟保存、2棟解体”という考え方についてご理解をいただきたい」と述べると、国も「県所有の建物であるし、方針に特段の異論はない」同調。ただ、市は「全てを残してほしい。失われてしまうと二度と取り戻すことができない」とした。

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 安全面と財政面を理由に2棟を解体する方針の県。1棟を所有しているが、独自の活用には消極的な国。全棟の保存を要望するも、費用負担には応じられない立場の市。県は「安全対策をさておいても守らなければならない“平和”があると言われるならば、お譲りしますという話もある」と提案するが、市は「今の状態は安全対策に必要な金の話でしかなく、被爆建物の保存・継承のシステムにそぐわない」と県の方針に異を唱えた。さらに県が「この場で、“広島市としてこういうふうに使いたい”と言っていただけるのなら、考慮の余地は大いにあるが」と問いかけると、市は「今のところこの場で申し上げられるようなものはない」とした。

 「非常に難しい立場。財源の問題も大きいですし、残してほしいと言う声もあり、3棟無くてもいいという人もいるわけで、その中でどこに議論をしていくのか、方向性を見定めていくのか…」と広島県の経営企画チームの三島史雄政策監。一方、広島市平和推進課の稲田亜由美担当課長は「本市では被服支廠に関わらず、被爆建物の所有者に対してできる限り保存継承をお願いしている」と説明した。

■「残してもらいたいけど、取り除いてもらったら嫌なことを思い出さなくて済む…」

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 最大84億円の費用をかけて、納税者の理解が得られる活用ができるのか。県と、全棟保存を求める広島市は、最後まで歩み寄ることができなかった。中本隆志県議会議長は「広島市も意見を言っておられるなら、話をする仲間に入ってもらいたい。財政的な負担をしていただくという話もいただきたいと思う」と呼びかけた。

 今年6月には、被服支廠の見学会が開かれた。主催者が「大空間をどう利用したらいいか、という話をぜひ考えていただきたい。お金がかかるということになるので、それをどうするか」と呼びかける。切明さんも体験を話す予定だったが、体調不良のため、参加は叶わなかった。見学者は「被爆された人はどうしても高齢で減ってくると思うので、(切明さんの話を聞けなかったのは)ちょっと残念だなというという思いはある」と話した。

 存続を求める声の高まりを受け、県は今年度の解体を見送った。保存費用の減額を探りながら、活用策の検討を続けている。ただ、2棟を解体するという計画も残されたままだ。「本当は残してもらいたいけど、全部取り除いてもらったら嫌なことを思い出さなくて済む。最後はどういうふうになるのか、私が生きてる間に決着が付けばいいなと思う」と小笠原さん。

 被爆から75年、被服支廠はあの日と同じ姿で建っている。(広島ホームテレビ制作 テレメンタリー揺れる平和都市 ~被服支廠は残るのか~』より)

揺れる平和都市 ~被服支廠は残るのか~
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