「10年という区切りはない」…父が津波に奪われた次女を捜し続ける意味
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 毎年3月11日に開かれてきた政府主催の東日本大震災追悼式が10周年を迎える今回で最後になるかもしれないという。

 そんな中、今も娘を探し続けるのが木村紀夫さん(55)だ。福島第一原発から3kmの距離にあった福島県大熊町の自宅が津波に流され、父親と妻、そして当時7歳だった次女の汐凪(ゆうな)ちゃんが犠牲になった。

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 発災当夜、暗闇の中で必死に3人の行方を捜索した木村さん。しかし翌日には町全域に避難指示が発令され、3人の安否がわからぬまま、母親と長女を連れて避難を余儀なくされた。町に入ることも叶わず、避難所などにビラを配って回る日々が1カ月以上が過ぎた頃、父親、そして妻の遺体が発見された。

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 自宅の前で見つかった父親について木村さんは「地元の消防団が避難するギリギリまで捜索をしてくれて、そのうちの4人が、親父の可能性が高い声を聞いている。翌日も避難せずにちゃんと捜索していれば、生きていた可能性もある」と悔しさをにじませる。

 さらに原発事故の影響もあり、大熊町で自衛隊などによる捜索が本格的に始まったのは、震災から2カ月以上経った後。一時帰宅などを利用し、自分でも汐凪ちゃんを捜すことにした木村さんだったが、町への立ち入りが許されるのは3カ月に一度、しかもわずか2時間のみ。それでも木村さんは「やめるわけにはいかない、とにかくやらなきゃならない」と、避難先の長野県から車で片道6時間かけて通い、泥や瓦礫をかき分け続けた。

 警察も捜索を開始する中、翌2012年6月には汐凪ちゃんが履いていた靴が瓦礫の中から発見された。被曝のリスクもある中、懸命に作業を続ける若い警察官を前に、木村さんは“周辺を徹底的に捜索してほしい”と言い出すことはできなかったという。

 人の背をゆうに超える瓦礫の山から娘の手がかりを一人で捜すという、気の遠くなるような作業。しかし、いつしかボランティアで手伝ってくれる仲間が現れ、遺品を見つける度、少しずつ笑顔も生まれていったという。

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 そして発災から5年9カ月が経過した2016年12月、汐凪ちゃんの遺骨の一部が自宅近くで発見された。当時、福島放送の取材に「楽しかった。何つうんだろ…。1人で捜している時は本当に辛いだけだったんだけど、汐凪が繋げてくれた人が大熊に一緒に入るようになって、捜索しながらも笑いが起きたり、段々楽しくなってね。今ではあそこに行くと3人と繋がれて、楽しい時間も持てて。本当に自分の中では特別な場所になったって気がする」と語っている。

 改めて発見時のときの心境について尋ねると、「ほっとした、という気持ちもあったが、すぐに新たな葛藤も生まれた。どうしても見つからなければ“海に行ってしまったんだな”というような整理もできるわけだが、見つかったことによって、生きていた可能性が否定できなくなってしまった。自分が取り残してしまった結果、命が奪われてしまったのではないか。そういう思いで苦しくなった。もちろん原発に対する怒りも湧いてきたが、捜さなかったのは自分なので…」と明かした。

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 木村さんのような家族からの依頼を受け、ボランティアで行方不明者の捜索を続けるNPO法人「海族DMC」の太見洋介理事長は「2016年から水中ドローンと船を活用した海底の遺品、遺体の捜索活動をしているが、やはり10年目という節目を迎えるにあたって、相談も増えてきている」と話す。

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 「墓石や金庫などは形として発見しやすい。そして印象的なのは子どもの体操着だ。丈夫に作られているので海底に漂っていて、台風の後などに出てくることもある。活動を快く受け入れてくれる漁協や自治体もある一方、“放っといて欲しい”と言われてしまうケースもある。やはりハードを整え、沿岸部に賑わいを呼び戻したいという中、“そういう活動は控えてほしい”というようなニュアンスで伝えてくるところもあった。

 確かに10年が経ち、景色は変わった。しかし行方不明者のご家族は、昨日のことのようにお話をしてくださる。その意味でも、10年目も昨日も変わらないものがあると思う。そして我々の活動は、大海原から米粒一つを捜すような活動に近い。むしろ何かを見つけるというよりも、活動を通して過去にこういった出来事があったんだよということを、当時を知らない子どもたちに伝えたい。もし共感してくれて、ゆくゆくは参画してもらえたら、という思いもある」。

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 去年は大熊町に142日入り、引き続き捜索を続けている木村さん。

 木村さんは最近、新たな活動を始めた。福島の現状を若者に知ってもらうための、オンラインによる情報発信だ。この日は長野県の中学生に対し、帰還困難区域内の自宅の場所や、汐凪ちゃんの遺骨が見つかった場所を案内。さらに大熊町と双葉町にまたがる広大な敷地に建てられた、除染で生じた汚染土などを一時保管するための中間貯蔵施設について説明していた。

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 「自分の中で、汐凪の命に意味を見出したい。後悔していることを人に語ることによって、これからの子どもたちの命を救う可能性もある。そして、捜すということが人との繋がりでもあるし、慰霊と共通していると思う。その意味でも、汐凪に引っ張られてここまで来た10年だったなって感じる。そして、この10年目が新しいスタートだなという気がしている。今日も大熊に行ってきたが、地元の警察官が3人、捜してくれていた。気持ちからの行動だと思うし、そこには10年という区切りはないと思う」。

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 慶應義塾大学の若新雄純特任准教授は「こういうニュースに対して、“いつまでやるんだ”“生き残った人たちのためだけにお金は使って欲しい”というようなコメントが寄せられることに対して驚く。じゃあ皆は何のためにお盆に帰って墓参りしているのだろうか。僕がお盆に実家に帰ってお墓参りをするのは、疑似的にご先祖様に会うためだ。それが生物として生きているかどうかとは関係なく、存在と向き合うために昔の人が知恵を絞ったシステムだと思うし、お祭りや様々な物語なども、記録媒体がなかった時代の先人たちが大事なことを後世に伝えようとして生まれてきた文化だと思う。だから木村さんたちの取り組みも、捜索を通しての“何か”なわけだ。逆に言えば、肉体が滅びたらそれで終わりなのかと思うし、戦後受けてきた教育は間抜けな物だったんだなと思ってしまう」とコメント。

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 ジャーナリストの佐々木俊尚氏は「僕は新聞記者だった1995年、阪神大震災の現地取材に入ったが、大半の犠牲者が建物の倒壊に伴う圧死によって発災の直後に亡くなっている。とても悲劇的な出来事ではあるが、東日本大震災の津波による行方不明者の家族に比べれば、遺族の気持ちの切り替えはしやすかったのではないか。地震から津波の襲来まで数十分があり、助けられた可能性がある。しかもいまだに見つかっていない。それが“後悔”として残り続ける。だから“亡くなった方は亡くなった方なんだから、あなたはあなたの人生を生きなきゃダメですよ”と言うのではなく、“亡くなった方と一緒にこれからも生きていきましょう”と、カウンセリングの方法を切り替えたカウンセラーもいる。

 だから国として捜索のための人員をどれだけ投入するか、あるいは慰霊祭をどれだけやるか、という問題ではなく、日本人としてこの事実をいかに抱え続けるか、ということだと思う。我々は太平洋戦争に関して語り継ごうという平和報道、教育をやってきたが、戦争体験者がいなくなりつつある今、やはり遠い昔の物語になりつつある。震災から10年が経ち、まさに忘れ始める時期である今、その教訓を踏まえ、いかに記憶を伝承すればいいのか、考えるべき時に来ているんじゃないか」と話していた。(ABEMA/『ABEMA Prime』より)

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