2011年3月11日の東日本大震災によって、福島県浪江町は一変した。
地震発生時、福島第一原子力発電所は運転を止めたものの、津波によりすべての電源を喪失。原子炉を冷やせなくなったことで、燃料が溶融し、放射性物質の閉じ込めができなくなった。
原発から浪江町まで、最も距離が近いところで約4km。町内全域に避難指示が出された。
東日本大震災から10年。それぞれが苦悩を抱えてきた避難者たち。ニュース番組『ABEMA Prime』では、新しい道を模索してきた避難者たちの決断、そして現実を考えた。
福島県浪江町出身の堀川さんは妻と共に静岡県富士市に避難した。故郷には「まだ戻ることは考えられない」と話す。
「私が生きている間には戻れないと思っている。原発の事故があのままの状態なので、収束して、デブリを取り除いて廃炉が終わったときに戻れるようになると思うが、それは私が生きている間ではないだろう」
堀川さんの話を聞いたひろゆき氏は「廃炉を目指しているのは、およそ40年後だ。その廃炉をやる必要はあるのだろうか」と投げかける。
「40年経ったら堀川さんのお子さんも、浪江町に戻りたいと思わないのではないか。他の地域で大人になって、家庭を作ると思う。そもそも80兆円と言われている廃炉費用を(国から)出す必要があるのだろうか」
ひろゆき氏の意見に、堀川さんは「浪江町にも歴史がある」と話す。
「最初の頃、浪江町に戻れるようになるまで、つまり廃炉が完成するまで、一時別のところに浪江町のコミュニティを作って、何十年かかろうとも皆で移り住もうと(話していた)。最終的に戻れる日が来たら、みんなで帰還しようと。浪江町にも何百年、何千年の歴史がある。その歴史をここで切るのは残酷だ。浪江町の歴史を元に戻すというか、改めて作らなくてはならない」
避難直後は“よそ者”と見られ、「仕事もしないで、ぶらぶらしているように見られる目がなんとなく痛かった」と話す堀川さん。今は避難した静岡県富士市の生活も「ある程度は気に入っている」と明かす。
そんな堀川さんに、ひろゆき氏は「浪江町を元に戻すためのお金ではなくて、富士市でお金をもらって豪華なご飯を食べて、子供の教育もお金を使って、子供たちや孫が幸せになった方がいいのでは」と意見。ひろゆき氏の指摘に対し、堀川さんは「私の心がそうはならない」と答える。
福島県富岡町出身で「とみおか子ども未来ネットワーク代表」の市村高志さんは「本当に僕は堀川さんがおっしゃる通りだと思う」と堀川さんに共感を示す。
「文化がこのような状態の中で壊されてしまうことに『本当にいいんですか』と。別に廃炉をやる・やらないの判断が私たちに委ねられているわけではない。国が責任としてやるわけだ。住んでいた領土を汚染されて、生活費がない状態にしていいわけがない。それを私たちに問うのは違うんじゃないか」
「浪江や富岡だけでなく双葉、大熊の地域、他にもあるが、こういう形で突然地域から離れてしまう。どうしても故郷という表現をするが、あそこには私たちの生活があった。その生活が突然なくなる。堀川さんもおっしゃっていたが、地震も津波も大変な被害ではあったが、原発事故がなければ私たちは避難ではなく、住んでいたその場で何らかの形で復興に寄与していた可能性もある。そこは無念というか、短絡的な話で終わらされるのは心外だ」
■「コミュニティが戻れば全て良いわけではない」一筋縄にはいかない“帰還政策”
一方で避難先から浪江町に戻った人もいる。清水裕香里さんは、原発事故の後、県内で避難生活を送っていたが、2017年の避難指示解除を機に帰還。清水さんは「元々浪江には戻りたい気持ちでいた。避難解除を待ち遠しくしていた」と話す。
「浜通り(※福島県東部にある太平洋側沿岸の地域)、浪江町はすごく気候もいい。冬は雪もほとんど降らない。自然豊かなところは、そのまま気に入っている。コミュニティは、前と全然違う人たちが周りにいるが、新しいコミュニティができた感じで生活している」
帰還後は手探りで始めた花農業が軌道に乗り、花を使った復興として全国でも注目を集めている。
原発事故によって「コミュニティが壊された」と思っているのだろうか。そこは割り切って、次の生活を始めているのだろうか。
「年代の問題もあると思う。私は50代だが私たちより下の人たちは『コミュニティが壊された』という感覚はあまりないのではないか」
また、周りでどのぐらいの人が浪江町に戻って来たのか聞くと「同じ職場の人が浪江町に戻ってきたが、自宅があった場所の周りはほとんど戻ってきていない」と明かした。
居住者数はかつての平均20%。なかなか数は増えていかない。堀川さんは「かつての住民は約2万1000人いた。1579名の中に元の町民が何人いるか、まだわからない。作業員として新しく浪江に来た人、また浪江に移住した人もこの中に入っている。帰還率と居住者数とは違う」と話す。
「自分が生きてきた場所とその場所には人がいて歴史がある。自分の人生そのものだ。自分の意思で引っ越したり、移住したりしたわけではない。ある日、突然だった。私たちには、自分の人生の存在が故郷にあった。それを無理やり断ち切られた。そこがどうも割り切れない。自分なりに割り切ろうと思って、新しい土地で生きよう、新しい生き方をしようと努力しているが、どうしてもまだ割り切れないところがある」
「私たちは人との繋がりの中で生きてきた。そのコミュニティが突然なくなった。新しく、かつてのコミュニティに近い形で残されるのだったら、私は文句なくそちらに移る。つまり、小さい浪江をどこかに作ってそこで暮らす。コミュニティがそこに戻るなら私もそこに行く」
帰還政策について、市村さんは「基本的には復興政策という形で進められている問題だ」と話す。
「清水さんは現地で本当にご苦労されながらやっている。ただ、帰還するだけで全てが解決する問題でもないのではないかと僕は感じている。だんだん人が帰っていき、現地で何かをするのは、とても素晴らしい。だが、今回のような機会があって、そのときだけ見てもらえる。ずっと現地で頑張っている方々や現状はなかなか目にすることがない。そこも考えていかなければ、原発事故(の処理)は何十年もかかる。お祭り的な要素で(復興政策を)やることは違う」
市村さんの意見に、清水さんも過疎化の問題を感じていたと明かす。
「過疎化はこれからも日本で問題になっていくと思う。私たちは農業と福祉を会社としてやっている。農業は、きつい、汚い、儲からないというイメージが強いが、そうではない農業を目指している。私たちが育てているトルコギキョウは1本で300円から500円のもの。気候のいいところなので移住者と一緒に花作りをして、1日30万円の売り上げを1人で作ることもある」
清水さんは会社の代表を務めているため、給料は決められているが「私が1人で一生懸命頑張れば(年間)1200万円ほどは稼げる」とコメント。ただし、経費が4割ぐらい引かれるため、手取りで700万円ほどになるという。
「365日24時間自由に自分の時間を使えるし、嫌な上司もいない。誰に気を使うことなく、稼げる農業を推進している。興味を持って『移住したい』と言ってくれる人もいる」
帰還で大切なのは「土地よりもコミュニティだ」という意見もあるが、現実はそう簡単にはいかない。
市村さんは「コミュニティが戻れば全て良いという話ではない。願いはたくさんある。私も震災前のコミュニティが戻ってほしいと思っているが、移動して変わっていくコミュニティもある。変わるものをどうやって受け入れるのか。その問題は原発だけでなく、津波(の避難者)に対しても同じだ」と語る。
帰還したい人の心情面や現実の生活など、課題が山積みの復興政策。時間の経過による変化もあり、一筋縄ではいかない問題が続いている。原発事故によって切り取られ、戻らない歴史。その中で未来への道を模索してきた避難者たちのためにも、一日も早い収束が望まれている。
(ABEMA/『ABEMA Prime』より)
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