プロレスリング・ノア春のビッグマッチ、4・29名古屋大会のメインイベントとして、王者・武藤敬司vs挑戦者・マサ北宮のGHCヘビー級選手権試合が行われる。この一戦で再びクローズアップされているのが、長いパーキンソン病の闘病生活の末、2018年7月に75歳で亡くなったマサ斎藤さんの存在だ。
王者・武藤にとってマサさんは、日本人レスラーとしてアメリカマット界でトップを張った先駆者であり心の師。マサさんの葬儀では武藤が弔辞を読み上げてもいる。一方、マサ北宮にとっては、健介オフィスでの新弟子時代からプロレスを叩き込まれた師匠であり、「マサ」の名前とファイトスタイル、そして座右の銘である“GO FOR BROKE”の精神を受け継いだ、憧れの存在。そんな両者が、GHCのベルトを懸けてシングル初対決を行う。
当日は、マサ斎藤夫人の斎藤倫子さんの来場も決定。この大一番を前に、倫子夫人にマサさんにとって武藤と北宮はどんな存在だったのか、そしてこの二人の対戦についての思いを語ってもらった。(聞き手・堀江ガンツ)
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― 今回、武藤敬司選手とマサ北宮選手という、マサ斎藤さんと縁の深い選手同士がGHCヘビー級タイトルマッチを行うことで、再び「マサ斎藤」という名前がクローズアップされることについて、どう感じていますか?
斎藤 うれしいかぎりです。マサさんが亡くなってから、「マサ斎藤」という名前を残し、つないでいくのが私の使命と決めたので。そういうチャンスがいただけたことに感謝しています。
― 両選手ともマサさんと関わりが深いですが、武藤さんとは古くからの付き合いですよね。
斎藤 80年代の新日本プロレス時代からですよね。波長が合ったんだと思います。90年代に私が新日の通訳のお仕事をさせていただく際、当時、私はプロレスのことをよく知らなかったので、各選手のことを学びたいと思って、マサさんにひとりずつ聞いていったんです。それで「武藤選手って、どんな選手?」って聞いたとき、即「天才よ」って返ってきたことが印象深いですね。
― そして何より、マサさんにとって武藤さんは、事実上の“最後の対戦相手”だったわけですよね。
※2016年12月2日、大阪・城東区民センターで開催されたマサ斎藤応援興行「STRONG STYLE HISTORY~GO FOR BROKE! FOREVER~」で、マサさんがリング上で挨拶した際、ホッケーマスクを被った“海賊男”が突如乱入。海賊男はバーキンソン病の影響で立っているのもやっとのマサさんに襲いかかるが、マサさんは自力で立ち上がり、チョップでなぎ倒すと、強烈なストンピングを連発。たまらず海賊男がマスクを取ると、その正体は武藤敬司。動けないはずのマサさんの奮闘は大きな感動を呼んだ。
― あの武藤さん扮する海賊男との“試合”というのは、マサさんにとってすごく意味のあるものだったんですよね?
斎藤 すごく大きかったですね。夢にまで見たリングでしたから。マサさん本人は、長いパーキンソンの闘病生活を送るなか、「もう一度リングに立つ」というとてつもない目標を立てて、辛い現実と闘うようになっていったのだと思います。「夢だけではでは絶対に終わらせないぞ」「俺はこのままでは終わらないぞ」という強い意志があったのでしょう。いえ、間違いなくあったに違いないです。マサさんはやはり凄い人です。チャンスが巡って来た時には、「しめた! 勝った!」と確信したはずです。
だから武藤さんとの“番外戦”が決まってからは、顔つきから何からすべて変わりましたね。水を得た魚のように、リハビリにも積極的に取り組むようになり。入院先のリハビリ病院には、体格の良いプロレス好きのPT(理学療法士)さんがいたんですけど。そのPTさん相手にスパーリングの練習までしてましたから。
― 普段は歩く練習とかをされていたようですけど、レスリングの練習までしていたんですね。そして大阪大会当日は、海賊男と闘うマサさんの姿にみんな驚いていました。歩くのも大変そうだったのに、リングでは動けるということに。
斎藤 あれがリングの魔力というものなんでしょう。また、マサさんにとっては最高のパワースポットだったんだな、と感じました。闘い終わったあとは、放心状態でした。尻餅ついた後、なんの補助もなく一人で立ち上がったは、後にも先にもあのリング上で武藤さんに向かっていった時、ただの一回でしたから。自分でも信じられなかったのではないですか。まさにGo For Broke! 全身全霊、すべてを出し切ったと言う感じで、ホテルへ戻ると食事もそこそこに深い眠りに落ちました。闘病生活の中で最も充実した1日であったと思います。
― あの頃、マサさんが無我夢中になれることはなかったわけですよね?
斎藤 見ているほうが辛くなるような、熾烈なパーキンソン病との闘病生活でしたから。今でも思い出すと涙が出てくるんですけど、発作でアゴが震えるじゃないですか。そうすると震えてる自分の顎を、すごい勢いで殴っていたのを憶えています。
― 自分の体が思うように動かないことへの苛立ちがそれほどあった、と。
斎藤 真っ暗闇だったんでしょうね。
― それがリングに関わることで、前向きになれたわけですね。一方、マサ北宮選手は、マサさんが健介オフィスの選手アドバイザーを務めていた時代の教え子ですが。あの若い選手たちと一緒に練習していた頃が、マサさんにとってはすごく充実していたわけですよね。
斎藤 パーキンソン病を発症してから、いちばんハッピーな時代だったと思います。マサさんは選手アドバイザーという肩書で、若手選手を育成するという立場で(佐々木)健介さんに呼んでいただいたわけですけど。私から見ると健介オフィスの道場は、マサさんにとっては「プロレス大好き学校」で、毎朝、“登校”するのが楽しみで仕方がないような感じでした。だから北宮選手に対しては、「プロレス大好き学校」のクラスメイトみたいな気持ちでいたんじゃないかな(笑)。
― 実際、マサさんも「弟子」とか「教え子」みたいな表現は使いませんもんね。
斎藤 そうですね。同じ仲間なんだと思います。マサさんからすると、北宮選手は孫ぐらいの年齢じゃないですか。でも、そういった世代間の壁みたいなものは一切なかったですね。教える立場のマサさんと道場生という感じでは一切なく、同じプロレス大好きな仲間でしたね。
一度、マサさんが練習中に具合が悪くなって、北宮選手たちが家まで送ってくれたことがあるんですけど、マンションの前まで来てるのに、玄関に入りたがらないんですよ。みんなと別れたくなくて(笑)。「みなさんも帰らなきゃいけないし、早く家に入って」と言っても拗ねちゃって、グズグズ言ってるんです。
― 子供が「まだ外で遊びたい」と駄々をこねるように(笑)。
斎藤 そうなんです。本当に小学生が、仲の良い友達と別れたくないって駄々をこねるようでしたね(笑)。
― その北宮選手が「マサ」という名前を引き継ぎたいと申し出てきたときは、どう思いましたか?
斎藤 あの時はびっくりしましたね。プロレスリング・ノアのマネージャーさんからお電話をいただいて、そうしたらマサさんも「おお、いいよいいよ」みたいな感じで即答だったので。北宮選手が「マサ」という名前を継承したいと言ってくれたことは光栄だし、すごくうれしかったと思います。
― 4・29名古屋大会では、そんな武藤さんと北宮選手がGHCヘビー級のベルトを懸けて闘います。
斎藤 当日、マサさんは確実に会場に降りてくると思いますよ。最後にリングで闘う夢を実現させてくれた武藤選手と、自分の名前を継いでくれた北宮選手の試合ですから。興味津々で絶対に観たいはずなので、じっとしていられないんじゃないかな。
― ある意味、マサさんが“特別立会人”なわけですね。
斎藤 そういうことになるんでしょうか。また道場生の頃から練習を見てきた北宮選手が、武藤さんとチャンピオンシップをやるまでになったのだから、マサさんも感無量だと思います。お二人のご健闘をお祈りしています。
― では最後に、マサ斎藤を長年応援してきたファンの方々にメッセージをお願いできますか?
斎藤 今回、マサさんと大の仲良しで、最後のリングに立つ夢をかなえてくれた武藤選手と、マサさんの名前を継いでくれたマサ北宮選手が試合をすると聞いて、私自身も感無量です。この試合で、みなさんがまた「マサさん、いなくて寂しいなぁ」と、思い出していただくきっかけになればうれしく思います。そして今後とも末長く、武藤選手、マサ北宮選手、そしてマサさんが愛したプロレスを盛り上げていただきますよう、どうぞよろしくお願いします。