ぶどうの町に生まれ、ぶどう農家になることが当たり前だった。大学卒業後にぶどう農家を継いだ宮田宗武さん(45)は「農業イヤなんですよね。生まれたときから農家なんで」と語りながらも、疲弊していくふるさとのために動かざるを得なかった。
【映像】ぶどう農家になる運命を背負った男性が挑む“地域再生”
「夢で4回でましたもん。世界を変えるぞって」と話す彼の野望は、ふるさとの名を世界に知らしめることだ。「農家のチカラで農村イノベーション」を活動テーマに掲げ、ぶどう生産のほか6次産品の開発・販売、交流イベントなどに取り組んでいる。
2019年からは約3haの耕作放棄地を買い取り再生事業に着手。単なるぶどう園ではなく、新たな交流拠点にしようと計画している。耕作放棄地の再生過程や、山間部の農村で行われている地域再生を追った。(大分朝日放送制作 テレメンタリー『農村イノベーション~ぶどうの町の再生物語~』)
■「産地が干される前に、ぶどうを干したほうがいいんじゃないか」
大分県の北部、宇佐市安心院町。人口およそ6000人、中山間農業地域だ。町の名産は米とスッポン、そしてブドウ。町内だけで100種類以上の品種が栽培されている。
ハンチング帽がトレードマークの宮田さんは、ぶどう農家の3代目だ。東京農業大学大学院を修了後、実家のぶどう園を継いだ。ぶどう農家は春夏秋冬、手を抜いていい時期はない。
「僕が生まれたときにはぶどうがあったんで、ぶどうを作っているというよりも、ライフサイクルの中にぶどうがいるっていう感じ。共存共栄してる感じ。真冬のめっちゃ寒いときに、触ると温かい。“あ、こいつら生きてるな”って思うと、しっかり管理しよう、肥料も有機質のものにしよう、と。自分が食べてもいいようなものぐらいの気持ちであげるっていうか」。
安心院でぶどう栽培が始まったのは1966年。国営パイロット事業の実施で樹園地が造成され、最盛期の1980年代にはおよそ400軒のぶどう農家が、年間2500トン以上を収穫していた。以来、ぶどう農家は減り続け現在は120軒ほどまで減少した。
さらに、60歳以上が6割と後継者不足も深刻化している。そんな中、宮田さんは、年々疲弊していくふるさとの現状に危機感を覚えている。「安心院の未来は俺たちにかかっている」。同年代の農家たちと議論を重ね、国内では珍しい、干しぶどう製造へ挑戦した。
宮田さんは「産地にぶどうがたくさんあって、どんどん疲弊していく、干されていく。産地が干される前に、ぶどうを干したほうがいいんじゃないかというシンプルな理由です」と話す。
■「フランスのシャンゼリゼ通りで、ドライフルーツを食べるのがゴール」
国産干しぶどうは評判を呼び、2012年、4人の若手農家とともにドリームファーマーズJAPANを設立した。宮田さんは代表に就任した。
宮田さんは「夢見てるやつらが集まっている。20代のときって吹くじゃないですか。いろんなこと言うでしょ。ドリームファーマーズかなって。ジャパンにしたのは外国に農地を持ちたいなって。なんで日本から出たらダメなの?っていうのを本当に思うんで。フランスのシャンゼリゼ通りで、ドライフルーツを食べるのがゴール」と展望を語る。
ドリームファーマーズJAPANの活動拠点を「農村ベース」と呼んでいる。生産者と消費者、地元住民との交流を図り、情報発信の基地として活用できるようにした。合言葉は「農家のチカラで農村イノベーション」。 相棒は副社長の安部元昭さんだ。唯一残る設立メンバーで、苦楽を共にしてきた。
安部さんは「(法人化は)チャレンジするチャンスだな、と思ってて。そういう時に宮田とか他のメンバーがいるからなんとかいけるやろ、と。今は僕と宮田で意思疎通しながら情報共有しながらやっているところはあるけど、ちょっと待ってよっていうときもあるし、それに乗っかっていこうっていうときもある。そこはいいバランスが取れていると思う」と話す。
■“体験を売る”というかたちの「農泊」
2019年4月。安心院に台湾の高校生がやってきた。彼らの目的は「農泊」だ。農泊とは農村民泊の略称で、農家や漁師の家に宿泊し、体験を通して地元の人々と交流する旅のスタイルだ。実は、安心院が発祥の地だ。今や全国で行われている体験型の旅行スタイルは、1996年、この地で生まれた。提唱したのは宮田さんの父、静一さんだ。
宮田さんは「農泊は父たちが始めたので、家業みたいなところはあります。安心院に来て農泊して自分たちで収穫したぶどうを干すとなるとすごく付加価値の高いものになって“体験を売る”というかたちになっている。ずっと干しぶどうのファンになってくれると思うし、ドリームファーマーズとしても意味があること」と話す。
実はこの年、宮田さんたちは新たなプロジェクトに取り掛かっていた。
宮田さんが「ここです。ここも(前所有者の)両親が農業していたけど、もうできないと辞めてしまった」と指をさす土地がある。衰退する農村に残された負の遺産、耕作放棄地だ。荒れ果てた土地を、観光農園と新たな交流拠点として再生させる狙いだ。
「今年中に開墾します。令和元年に。令和元年スタートですよ」と意気込む。
■「ヒト・モノ・コト・バショ」の整備が必要な、農村の再生
ドリームファーマーズJAPANの自社農園も、かつて、耕作放棄地を自分たちで再生させた。ぶどうが収穫できるまでには、4年を費やした。
宮田さんは「耕作放棄地になった後の復元が難しい。上(土地)に構造物が残っているので、(作物の収穫に)複数年かかってしまう。産地50周年を迎えたので、この先の産地づくりをみんなと議論していかなければいけないけど、そのためにはあふれるくらいのお客さんと作ったら売れるという状況、ぶどう産業が成り立つ環境を作らないと難しい。でも流行りのシャインマスカットを植えていますとかだと一過性になってしまう。そうじゃなくて持続可能な農業をするのであれば、農泊とか農園に迎え入れることが必要」と話す。
農村の再生には、「ヒト・モノ・コト・バショ」の整備が必要だという宮田さん。そのためには「持続可能な農業体制の確立」「農泊の進化」そして「耕作放棄地の再生」が当面のテーマだ。開墾予定地の広さは自社農園の2倍以上の3ヘクタール、事業費はおよそ4億5000万円、行政と協力してすすめる、一大プロジェクトだ。
暑さが残る2019年9月、いよいよ工事が始まった。宮田さんの農園で、ぶどう狩りシーズンが最盛期を迎えていた。
■「地図を書き換える力がある人間ってすごい」
ぶどう狩りシーズンが落ち着く頃に、毎年開催されるイベントがある。2019年で5回目の開催を迎える「農縁サミット」と名づけられた異業種交流会だ。全国からの参加者はおよそ130人。農家や行政、実業家など様々なジャンルの人々が情報を交換し、思いの丈をぶつけ合った。
参加した宮崎県の果樹農家は「農協や市場を通さない売り方をしています。手数料が高いので」と述べた。福岡県の果樹農家は「私には夢があって、小中学生のなりたい職業ランキングで農業が10位以内に入ること」と話す。
宮田さんは「集まるということ。可能性は広がっていると思います」と狙いを話す。
11月、耕作放棄地の工事が始まって2ヶ月が経った。開かれた土地を見た宮田さんが一言。
「人間ってすごいなと思います。地図を書き換える力がある」とつぶやいた。
4月は見通すことすらできなかった場所がきれいに整えられた。ここに4つの圃場ができる予定だ。宮田さんは「土とぶどうの相性が良ければ2年後から収穫できる。安定した量を収穫できるのは5年後」と展望を語る。
ここからさらに5m以上の表土を削り、廃材を撤去し、排水設備を整え、堆肥をいれるなど完成には時間がかかる。
■「格好悪いとか大変とか思われている農業が、コロナ禍で見直される」
順調に進んでいるかのように見えた農村再生計画。年明けからその状況が一変するとは、誰も想像していなかった。2020年の初めから、全国に蔓延しはじめた新型コロナウイルス。3月3日。大分県でも1例目が確認された。
4月初旬、宮田さんのぶどう園では新芽が出始めていた。新型コロナの影響を宮田さんに聞くと、意外な答えが返ってきた。
「(影響)ないです。3密関係ない。ぶどうの作業は普通に忙しい時期です。土からものを作るということを、あらためてPRしていって、主体的に農村に見を向けてもらえるチャンスだと思う。夢で4回出ましたもん。世界を変えるぞって」と笑う。
そんな中、スタッフとともに行ってきた地道な情報発信が効果を発揮する。
「ドリームファーマーズをやっていてよかったと思うのは1人でインターネット販売をしようと思ってもできなかった。途方に暮れるところだった。たまたま副社長が新型コロナウイルス拡大前にYouTubeを始めていたり、Facebookはたまたませっせとあげていた。Instagramもスタッフが熱心にせっせとあげていた経緯があって、お陰さまでインターネット販売はちょいちょい来る。ただお客さんが来なければ観光農園は破綻するんで」。
好調なインターネット販売と、ぶどう狩りシーズンへの不安。状況の変化は宮田さんの考え方にも影響を与えた。
「農業イヤなんですよね。生まれた時から農家なんで。でもここにきて、農業でよかったんじゃないかと迷っている自分もいる。20代の頃、50歳で農業を辞めるって宣言していた時代もあって、今でもその思いは変わらない。(農業は)格好悪いとか大変とか思われているところが、(コロナ禍で)見直されるというか農業が脚光を浴びる気がする。農村はチャンスだと思うんです」。 こんな状況だからこそ気づいた農業の強さと新たな可能性。「道を切り拓くのはやはり俺たちだ」という思い。いつか辞めるつもりだった農業に対して新たな気持ちが芽生えた。
■夢が広がるっていうよりも、プレッシャーは半端じゃない
5月初旬、新農園の工事はまだ続いていた。工期が1カ月ほど遅れている上、想定よりも土地の状態が悪く、得体の知れない水と乾燥し切った硬い土に、2人は愕然とした。
宮田さんは「もう死んでますよね。土が。本当に5年後、10年後にぶどうがちゃんとできればいいですけど。息吹を感じない」と心配げだ。土が固まってレンガ状になっていた。それを見つけ「これはダメだろ…」と思わずこぼす。
3週間後、第3圃場に表土と堆肥を入れ、耕した。果たしてその状態は。
「正直な話、上(第1圃場)で最低な土地見て、土が死んでると思ったけど、これ生きてますね。これなら農業できそうです。こっちは混ぜて土作りをしている。基本なんですよね。それをぶどうに合った土にこっちが作っていく。時間はかかりますよ。夢が広がるっていうよりも、プレッシャーは半端じゃない。これだけは言えるんですけど、ドリームファーマーズが耕作放棄地を再生させて、次世代に農地を残す取り組みの第一歩。“農家のチカラで農村イノベーション”を考えるための教材としてはちょっと高い買い物かなと思います」。
6月後半、農園では良質なぶどうを収穫するための摘果作業が始まっていた。
宮田さんは「2019年の冬が温かかったんで、生育ストレスが上手くかかってない。今年は小粒のぶどうになるんじゃないかと思って少し量を多めに残して、これからまた半分くらいにしていく。でもぶどう狩りももうやめようかと思いますよね。お客さん来ないんで。どれだけきついか知ってますか?来ないお客さんを待つのって」と話す。
さらに、例年なら繁忙期となる農泊も2000人以上がキャンセルとなり、受け入れはほぼゼロになってしまった。農村再生ツールの一つが機能しなくなった。
そんな中、宮田さんたちが密かに進めていたプロジェクトがあった。それは東京・代官山にアンテナショップをオープンさせることだ。代官山駅から徒歩数十秒の場所で、全国から仲間を募集し、農産物や6次産品を販売。情報集約・発信の基地にする狙いだ。緊急事態宣言が解除された6月末、立ち上げメンバーがようやく安心院に集まることができた。
デザイナーの浦岡伸行さんは「農村ベースって手数料を取らないから。どういうこと?みたいな」と話す。宮田さんは「今から50人でイノベーションを作っていきましょうって言った方がわかりやすい」とコンセプトを明かす。
■ドリームファーマーズが作った、世界でも残したい農村になればいい
2020年7月23日、「農村BASE代官山」がオープンした。ただ宮田さんたちは、新型コロナの影響でいまだ足を運ぶことができていない。
9月下旬、農園のぶどうがたわわに実り、ぶどう狩りが最盛期を迎えた。「非密のぶどう畑大作戦」と銘打ち、手洗い場の設置、ハサミの増量、消毒の徹底など最大限の感染症対策を講じたことに加え、SNSやホームページ、旅行サイトを活用し、集客アップを目指す。
安部さんは「今日は行列ができていました。ぶどう計量のための行列が」と嬉しそうだ。宮田さんも「今年は想定より個人のお客さんが多いです。(例年は)団体客に準備をしていた」と話す。
初期費用はかかったものの、売り上げは前年比120パーセント。久しぶりに明るい話題だ。
一方、新農園は土作りの第二段階に来ていた。播いているのは麦だ。土壌の毒素を吸収し、刈り取らずに土にすきこむことでぶどう栽培に適した土地に近づける。新型コロナがなければ、農泊やイベントで関わった人たちとともに行う予定だったこの作業。少人数では骨が折れる。
宮田さんは「土作りも、人づくりも大切ですから。色々あるけど1人じゃないんで。この麦たちにも助けてもらって、枯れ地に息吹を」と汗だくで麦を撒いていく。
2週間後、荒れ果てていた土地に芽吹いた新しい命。いよいよ新農園の歴史が始まる。新型コロナウイルスに翻弄された2020年が終わり、先行きが不透明なまま、新しい年が始まった。
「ぶどうを作っています。ぶどうに関係することやっています。ぶどうの産地に関係することをやっています。だからこの町、安心院っていうところをPRすることで何かゴールが見えてくるのかな、と思います。世界でも残したい農村になればいいなと。そこで干しぶどう作ってて、“これ知らないの?ドリームファーマーズが作ったんだよ?え?安心院知らないの?”っていうツールになったらいいな」。
宮田さんの情熱に感化されたのか、足元には気の早い麦が実をつけていた。(大分朝日放送制作 テレメンタリー『農村イノベーション~ぶどうの町の再生物語~』)