サッカー日本代表を率いた監督たちのワールドカップ(W杯)における勝率を調査。経歴とあわせて振り返ります。
目次
- 歴代サッカー日本代表監督(ワールドカップ勝率順)
- 予選敗退となった監督たち
- 大会前に退任した監督たち
- 予選出場なしの監督たち
- まとめ
歴代サッカー日本代表監督(ワールドカップ勝率順)
勝率は引き分け試合を除いた試合数のうち、勝った割合を表記しています。計算式は勝率 = 勝試合数÷(勝試合数+敗試合数)です。なお、引き分けのカウントはグループステージのみで、PK戦による決着は勝敗をつけたものとしてカウントしています。
フィリップ・トルシエ:2勝1分1敗(勝率.667)
カタールの地で、7大会連続となる7回目のワールドカップを戦うサッカー日本代表。ワールドカップ2022を含む通算成績は7勝4分14敗と大きく負け越している状況です。
その7大会で監督を務めたのは全部で6人。監督別の勝率を見ていくと、最も高い数字を示したのが2002年のワールドカップ日韓大会で指揮を執ったフィリップ・トルシエ監督です。グループリーグではベルギーと引き分け日本にワールドカップ初の勝点をもたらすと、続くロシア戦では1-0と歴史的な勝利を収めました。さらに第3戦ではチュニジアを下し、決勝トーナメントに進出。ラウンド16ではトルコに敗れたものの、自国開催の大会で2勝1分1敗という成績を残しています。
1998年のフランス大会終了後に就任したトルシエ監督は、A代表だけではなく、五輪代表、U-20代表と3世代を指揮。1999年にU-20代表をワールドユース準優勝に導く手腕を発揮すると、2000年のシドニー五輪ではベスト8進出。同年のアジアカップでは優勝を成し遂げています。3世代の監督を務めていたことで若手の融合がスムーズに進み、稲本潤一(いなもと じゅんいち)選手や小野伸二(おの しんじ)選手らワールドユース準優勝メンバーがA代表でも主軸に上り詰めていきました。
最終ラインの3人をフラットに並べてラインを押し上げ、コンパクトな陣形を保つ“フラットスリー”が代名詞で、能力の高い若手を積極起用し、チームを強化しました。
森保一:2勝2敗(勝率.500)
現在のサッカー日本代表監督を務める森保一(もりやす はじめ)監督は、現役時代も日本代表として活躍。1993年には“ドーハの悲劇”も経験しています。
2012年に現役時代を過ごしたサンフレッチェ広島で監督業をスタートさせると、就任1年目にしてクラブに初のリーグ優勝をもたらします。翌2013年には連覇を達成し、2015年には三度目の優勝と、黄金時代を築きました。
その手腕が評価され、2017年に2020年の東京五輪を目指すチームの監督に就任。2018年4月には西野朗(にしの あきら)監督が就任したサッカー日本代表のコーチにも抜擢されました。
そして2018年7月にサッカー日本代表監督に就任。東京五輪代表監督との兼任となりました。
2019年に行われたアジアカップでは決勝でカタールに敗れたものの準優勝。2021年に行われた東京五輪ではチームを4位に導きました。
苦戦したワールドカップ2022アジア予選でも4-3-3への布陣変更が奏功。1勝2敗とスタートに躓きながら、怒涛の6連勝で巻き返し、7大会連続7回目のワールドカップ出場を決めました。
ハイプレスと縦に速い攻撃を標榜する森保監督は、組織を重視しながらも適材適所の配置で選手の個性を生かす術にも長けています。準備と継続性を重視し、揺るぎない信念を備える一方、時に大胆な采配を振るい流れを変える手腕も発揮します。
今大会ではドイツ戦で3バックへの変更がはまり、歴史的な逆転勝利を演出。コスタリカ戦では相手の堅守を崩せずに敗れましたが、グループステージ突破がかかるスペインとの第3戦では再びジャイアントキリングを達成。W杯優勝を経験した2カ国に勝利して、堂々のグループ首位でノックアウトステージに進出しました。
ラウンド16ではクロアチアと対戦。先制しながらも同点に追いつかれると、延長を含む120分を戦い抜いて勝負はPK戦へ。しかしこのPK戦を1-3で落として、目標としていたベスト8進出はなりませんでした。
西野朗:1勝1分2敗(勝率.333)
2018年のロシア大会でベスト16に導いたのが西野朗監督です。長年指揮したガンバ大阪では多くのタイトルを獲得し、ヴィッセル神戸や名古屋グランパスの監督も務めました。
2016年に日本サッカー協会の技術委員長に就任すると、2018年4月、それまでサッカー日本代表を率いていたヴァヒド・ハリルホジッチ監督が解任。その後を引き継ぐ形で、ワールドカップ開幕2か月前に、監督に就任しました。
初陣となった親善試合のガーナ戦に0-2で敗れると、本番直前の強化試合でもスイスに敗戦。大会前最後の試合となったパラグアイ戦では勝利を収めましたが、不安を抱えたまま本大会に臨むことになりました。
しかし、本大会では初戦のコロンビア戦に相手が退場者を出したこともあり、2-1と勝利。続くセネガル戦では本田圭佑(ほんだ けいすけ)選手の活躍などで2-2と引き分けると、引き分け以上で決勝トーナメント進出が決まる第3戦のポーランド戦ではスタメン6人を入れ替える大胆な采配を披露。後半立ち上がりに先制され0-1の敗戦に終わりましたが、フェアプレーポイントの差で、日本は決勝トーナメントに駒を進めることができました。
ラウンド16では強豪ベルギーと対戦。ポーランド戦とは打って変わって積極的な姿勢を見せた日本は、後半立ち上がりに原口元気(はらぐち げんき)選手と乾貴士(いぬい たかし)選手が立て続けにゴールを奪い、2点を先行します。しかしその後に2点を返されると、後半アディショナルタイムにカウンターから逆転ゴールを奪われ、2-3と敗戦を喫しました。
ベスト8進出は叶わなかったものの、急遽の就任となった西野監督は、長谷部誠(はせべ まこと)選手をはじめ、本田選手、香川真司(かがわ しんじ)選手ら経験豊富な選手を多くメンバーに入れ、限られた準備時間の中で下馬評を覆す結果を手に入れました。
岡田武史(2大会):2勝5敗(勝率.286)
日本が初めてワールドカップに出場した1998年のフランス大会。チームを率いたのは岡田武史(おかだ たけし)監督でした。
アジア最終予選の途中にコーチから昇格した岡田監督は、イランとの第3代表決定戦で劇的な勝利をもたらし、日本を初のワールドカップに導きました。
しかしグループリーグ初戦でアルゼンチンに敗れると、続くクロアチア戦にも敗れ早くも敗退が決定。第3戦のジャマイカ戦では中山雅史(なかやま まさし)選手が日本人としてワールドカップ初ゴールを決めたものの、1-2で敗れ、3戦全敗に終わりました。
岡田監督は2010年の南アフリカ大会でも指揮を執りました。イビチャ・オシム監督が病に倒れたことで2008年に再就任した岡田監督は、アジア予選を突破し日本を4大会連続のワールドカップに導きます。しかしワールドカップが開かれる2010年に入ると東アジアサッカー選手権や親善試合で結果を出すことができにいました。
すると岡田監督は大会直前に戦術を大きく変更。攻撃の中心だった中村俊輔(なかむら しゅんすけ)選手を外し、守備的な戦いを選択しました。
その決断が奏功し、本大会では初戦のカメルーン戦で、1トップ起用された本田圭佑(ほんだ けいすけ)選手の決勝ゴールで1-0と勝利。続くオランダ戦には敗れましたが、第3戦では本田選手と遠藤保仁(えんどう やすひと)選手が直接FKを叩き込むなど、3-1と快勝。2勝1敗でグループ2位となり、自国開催以外では初となる決勝トーナメント進出に導きました。
ラウンド16ではパラグアイの堅守を崩せず0-0のままPK戦の末に敗れ、ベスト8進出はなりませんでした。しかし、腹をくくった岡田監督の勝負師としての決断が、大会前の予想を大きく覆す結果をもたらしました。
ジーコ:1分2敗(0)
ジーコ監督が就任したのは2002年7月のこと。それまで監督経験はありませんでしたが、現役時代の実績やカリスマ性が備わる世界的なスターの就任に、大きな期待が寄せられました。
選手の個性を生かしたチーム作りを進めたジーコ監督は、中田英寿(なかた ひでとし)選手、中村俊輔(なかむら しゅんすけ)選手、小野伸二(おの しんじ)選手、稲本潤一(いなもと じゅんいち)選手の“黄金のカルテット”を形成。バランスよりも攻撃的な戦いを選択しました。またジーコ監督の顔の広さが豪華なマッチメイクを実現させ、アルゼンチンやイングランド、ドイツといった強豪国との親善試合をこなしながらチームを強化していきました。
2004年のアジアカップで優勝すると、アジア予選も危なげなく勝ち抜き、3大会連続のワールドカップ出場に導きます。
しかし、前回のベスト16以上が期待された本大会グループステージでは、初戦のオーストラリア戦で中村選手のゴールで先制しながら、終了間際に立て続けに3点を奪われ、1-3と逆転負け。続くクロアチア戦では引き分けたものの、第3戦ではブラジルに1-4と完敗。1分2敗とひとつの勝利も手にすることができず、大会を去ることになりました。
アルベルト・ザッケローニ:1分2敗(0)
2014年のブラジル大会でサッカー日本代表を率いたのは、アルベルト・ザッケローニ監督です。イタリア出身の指揮官は母国のクラブに多くのタイトルをもたらした一方、代表チームを率いるのは初めての経験で、不安と期待が入り混じる船出となりました。
しかし初陣となったアルゼンチン戦で勝利を収めると、就任から半年も経たないうちに行われたアジアカップでは、難敵を次々に撃破し、優勝をもたらします。ワールドカップのアジア予選でも危なげない戦いを披露。余裕を持って本大会出場権を手に入れました。
本田圭佑(ほんだ けいすけ)選手、長友佑都(ながとも ゆうと)選手、岡崎慎司(おかざき しんじ)選手、香川真司(かがわ しんじ)選手ら欧州で活躍する選手たちを中心に据え、攻撃的な戦いを標榜。早い段階からチームを完成させ、アジアでは無類の強さを示しました。
しかし、本大会1年前に行われたコンフェデレーションズカップではブラジル、イタリア、メキシコに敗れ3戦全敗。親善試合ではフランスやベルギーに勝利したこともありましたが、対世界という面では不安を残していました。
そして迎えた本大会グループステージでは、初戦のコートジボワール戦で1-2と逆転負け。続くギリシャ戦では数的優位に立ちながらもスコアレスドローで終了。そして第3戦のコロンビア戦では力の差を見せつけられて1-4と完敗に終わり、史上最強と謳われたサッカー日本代表はブラジルの地を後にすることになりました。
予選敗退となった監督たち
1998年大会以来7大会連続でワールドカップに出場している日本ですが、それ以前はアジアの壁を越えられない時代がありました。
初めてワールドカップ予選に参加したのは1954年のスイス大会。続いて1962年のチリ大会予選にも参戦し、1970年のメキシコ大会以降は継続的に予選に出場しています(自国開催の2002年大会を除く)。
竹腰重丸(スイス大会)
スイス大会出場を目指した竹腰重丸(たけのこし しげまる)監督でしたが、韓国との初戦を1-5の大敗で落とすと、続く2戦目は2-2のドロー。2戦で1分1敗となり、予選敗退が決定しました。
高橋英辰(チリ大会)
高橋英辰(たかはし ひでとき)監督率いるサッカー日本代表は、チリ大会出場を目指して宿敵・韓国との試合を迎えました。しかし初戦は1-2、2戦目は0-2で敗れ、予選で敗退となりました。
長沼健(メキシコ大会)
メキシコ大会出場を目指したサッカー日本代表は、長沼健(ながぬま けん)監督が率いました。1次予選でオーストラリアと韓国の2カ国と対戦。オーストラリア戦は初戦を1-3で落とすと、2戦目は1-1のドロー。韓国戦は初戦を2-2のドローで終えましたが、2戦目は0-2の敗戦。4戦2分2敗で1次予選敗退が決まりました。
続く西ドイツ大会予選も長沼監督が率いましたが、1次リーグ初戦こそ南ベトナムに4-0と快勝しましたが、2戦目の香港戦は0-1の敗戦。3戦目のイスラエル戦も0-1で敗れ、予選敗退となりました。
二宮寛(アルゼンチン大会)
アルゼンチン大会出場を目指した二宮寛(にのみや ひろし)監督率いるサッカー日本代表。1次予選ではイスラエルと韓国と対戦しました。イスラエル戦は2戦共に0-2の敗戦。韓国との初戦は0-0のドローでしたが、2戦目は0-1で敗れて予選敗退となりました。
川淵三郎(スペイン大会)
1982年のスペイン大会を目指したチームを指揮したのは川淵三郎(かわぶち さぶろう)監督です。現役時代は日本代表としてもプレーした攻撃的な選手で、引退後は自身が在籍した古河電気工業サッカー部で監督を務め、1980年にサッカー日本代表監督に就任しました。
しかし同年に行われたワールドカップ予選では、マカオに勝利し1次リーグを突破するも、続くトーナメントで北朝鮮に敗れ、最終予選進出はなりませんでした。川渕監督は予選後に退任し、後にJリーグの初代チェアマン、日本サッカー協会会長を務めました。
森孝慈(メキシコ大会)
1986年のメキシコ大会予選では、森孝慈(もり たかじ)監督が率いるチームが韓国との最終予選に臨んだものの、2戦合計1-3で敗れ、悲願の初出場はなりませんでした。
横山謙三(イタリア大会)
1990年のイタリア大会予選では横山謙三(よこやま けんぞう)監督が指揮を執りましたが、北朝鮮の後塵を拝し、1次予選で敗退しています。
ハンス・オフト(アメリカ大会)
日本が最もワールドカップに近づいたのは1994年のアメリカ大会。初の外国人指揮官となったハンス・オフト監督の下で最終予選進出を果たしたものの、最終戦のイラク戦で終了間際に追いつかれ、惜しくも本大会出場はなりませんでした。
大会前に退任した監督たち
加茂周
フランス大会出場を目指したサッカー日本代表を率いたのは加茂周(かも しゅう)監督でした。しかしアジア最終予選での成績が奮わずに、予選途中で解任。その後は、コーチを務めていた岡田武史氏が指揮を取りました。
イビチャ・オシム
2010年の南アフリカ大会を目指したチームを指揮したのはイビチャ・オシム監督です。
ユーゴスラビア代表をワールドカップベスト8に導いた名将は、2003年に来日し、ジェフユナイテッド千葉の監督に就任。低迷するチームを強豪へと導き、2005年にはクラブに初タイトルをもたらしました。
その手腕が買われ、2006年にサッカー日本代表監督に就任。「考えて走るサッカー」をテーマに、日本らしいスタイルを追い求め、様々なアイデアを組み込んだ練習でチームを強化。2007年のアジアカップは4位に終わりましたが、攻撃的でアグレッシブなサッカーは着実に日本に浸透し、さらなる進化が期待されていました。
しかし2007年11月、脳梗塞で倒れ危篤状態に。一命は取り留めましたが監督業を続けられる状態ではなく、チームの完成を見ることなく監督を退きました。
ハビエル・アギーレ
2018年のロシア大会に向けて招聘されたハビエル・アギーレ監督は、母国のメキシコやスペインなど多くのクラブを指揮。2002年と2010年のワールドカップではメキシコ代表監督を務め、ともにベスト16進出を果たしています。
2014年8月に就任したアギーレ監督でしたが同年12月、2011年に監督を務めていたサラゴサ(スペイン)で八百長に関与した疑いがあるとしてスペイン当局から告発。2015年1月に行われたアジアカップでは指揮を執り、ベスト8で敗退となった後、八百長関与の疑いを重く見た日本協会から同年2月に契約解除が発表されました。
バヒド・ハリルホジッチ
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ出身でフランス国籍も持つバヒド・ハリルホジッチ監督は、フランスやアフリカのクラブで実績を積み、コートジボワール代表監督やアルジェリア代表監督も歴任。アルジェリアを率いた2014年のブラジル大会では同国史上初となるベスト16進出を実現しました。
2015年3月にサッカー日本代表監督に就任したハリルホジッチ監督は、縦に速いサッカーを標榜。しかしボールをつなぎたい選手たちとの対立が生じ、なかなかチーム強化は進みませんでした。
それでもアジア予選では結果を出し、6大会連続のワールドカップ出場権を確保。ところがワールドカップ本番を控えた2018年4月に「選手たちとのコミュニケーションや信頼関係が薄れていた」と判断され、日本協会から解任が言い渡されました。
ハリルホジッチ監督はコートジボワールを率いた時も、ワールドカップ出場権を獲得しながら、本大会を前に解任。そして今年3月、モロッコ代表をワールドカップに導きましたが、8月に解任が発表。実に3度目の悲劇を味わうこととなりました。
予選出場なしの監督たち
日本サッカー協会が設立された1921年以降、サッカー日本代表を率いるもW杯予選を戦っていない監督は、1921年の佐々木等(ささき ひとし)監督、1923年の西田満寿次郎(にしだ ますじろう)監督、1925年の山田午郎(やまだ ごろう)監督、1930年や1936年の鈴木重義(すずき しげよし)監督、1942年の工藤孝一(くどう こういち)監督、1951年の二宮洋一(にのみや ひろかず)監督です。
まとめ
ワールドカップ常連国となったサッカー日本代表ですが、勝率を見ると世界ではなかなか厳しい戦いが続いていることが分かります。
そのなかで決勝トーナメント進出という結果を出しているのは、自国開催の2002年大会で指揮を執ったトルシエ監督を除けば、岡田監督と西野監督、そして森保監督という3人の日本人監督となってます。