森保一。愛称ポイチ。無名だった選手時代、森 保一(もり やすかず)とよく名前を間違えられたのがその所以だ。森保は、このエピソードが語るように、華やかな日本サッカーの表街道とはまったく無縁の、ずっと日陰のコースを歩んできた。
長崎の高校時代は2大勢力の国見や島原商業には入れず、プロ前身のマツダ(サンフレッチェ広島)では、サテライトチームであるマツダFC東洋でボールを蹴るところからスタートした。苦労人という表現が陳腐に聞こえるほどのマイナススタートだ。
【映像】森保監督「選手が一番思い切ってプレーできる環境づくりをする」
それから35年。選手、指導者の紆余曲折を経て森保は今、日本代表監督としてカタールに立っている。
森保は、日本で唯一無二の存在かもしれない。それは今や伝説と化した29年前の「ドーハの悲劇」のピッチに立ち、4年前の「ロストフの14秒」もピッチで見つめ、そしてドイツとスペインを破った「ドーハの歓喜」をピッチで(しかも監督として)経験した、ただ一人の男だからだ。
どれほどのスターでも、どれほどの有名な指導者でも、このようなキャリアを持っている男はいないはずだ。名前も正確に呼ばれず、ポイチと呼ばれた男が、日本サッカーの悲劇と惨事と、そして歓喜をも経験した、まさに「歴史を作る」に相応しい日本サッカーの重要人物になったのだ。
以前のインタビューで「指揮官として大事にしていることは何か?」という質問に、森保は「選手が一番思い切ってプレーできる環境づくりをすること」と、全力を出せる土台作りの重要性について語った。
「強い個性がある選手たちをどうやって輝かせるのか」といった課題があるとして「個々を融合させてチーム力として最大限のパワーを発揮させるにはどうしたらいいんだろう? というのは毎回の活動で突きつけられる」と、指揮官としての苦悩と本音を語った。
様々な個性のある選手をまとめ上げ、チームに一体感をもたらし、勝利に導く。代表監督は、栄光の裏にある孤独な作業は想像以上にタフな世界だ。
だからこそ、森保監督は、過去の日本代表監督にも大きなリスペクトを持っている。
「(ハンス・)オフト監督はすごく大きい」と自身が日本代表時代に師事した恩師の名を挙げて「練習は本当に厳しく要求してきますし、プレーのタスクについても厳しく要求してきますけど、どこか笑いがあるみたいな。楽しんでいるみたいなところは、すごくいいなと思いました」と、理由は指導内容とチームの雰囲気づくりだと語った。
歴代の代表監督たちからの学びもあるという。2002年日韓W杯のフィリップ・トルシエ監督については「いろいろなポイントがある」としながらも、世界に日本の組織力が通用することを証明したと説明。
2010年南アフリカW杯の岡田武史監督については「本当にベスト8に行きそうだったんですけど」と悔しい思いがあったとしながらも「守備力でそれまで日本がやられていたサイドをしっかりと止めて『いい守備からいい攻撃に』ということでベスト16まで行った」と振り返った。
2018年ロシアW杯の西野朗監督については「『日本人、もっとボール握れるでしょ』『もっとアグレッシブに攻撃も守備も仕掛けていけるでしょ』ということでチーム作りをされてベスト16に行った」とコメント。
ほかにも、アルベルト・ザッケローニ監督が「組織力、守備力、攻撃力」を活かしながら「インテンシティ(集中力)を高く保って試合を戦えるように」と唱えていたことや、ヴァヒド・ハリルホジッチ監督が、デュエルやダイレクトプレーといった世界のスタンダードを日本人に植え付けてくれた功績を挙げて「そういうところをすべて、ワールドカップに出て成功したところをいいとこどりをしながらベスト16の壁を破りたい」と抱負を語っていた。
カタールW杯が終わって、日本代表の監督の去就が話題になるだろう。森保の続投かもしれないし、誰かに代わるのかもしれない。
森保が唯一、他の監督達と違うものがあるとすれば、それは「日本サッカーの歴史を作った」という事実だろう。「歴史=カタールの歓喜」ではない。
日本サッカーの悲劇と惨事から・・・いやその前の、悲哀と苦しみと忍耐を体験した選手時代から、日本サッカーのど真ん中で闘って歓喜まで辿り着いた歴史を作った男。
そんな男が挑む、前人未到の場所(ベスト8)まで、あともう少しだ。
文:橘高唯史
(ABEMA/FIFA ワールドカップ カタール 2022)