4日付の日本経済新聞朝刊が掲載した漫画『月曜日のたわわ』の全面広告をきっかけに、メディアと“見たくない表現に触れない権利”の関係が論争を呼んでいる。
議論をする上では、1988年の最高裁判決が参考になりそうだ。車内で広告の放送が流れることについて乗客が地下鉄を訴えた裁判で、最高裁「受忍の範囲を超えたプライバシーの侵害であるということはできず、その論旨は採用することはできない」としている。
【映像】激論 "見たくない表現に触れない権利"メディアは尊重すべき?
■法哲学者「新聞なので一瞬で目を逸らす、畳むといったことができる」
慶應義塾大学の大屋雄裕教授(法哲学)は「私が自己決定する自由の中には、“見ない自由”というものも含まれる。ただしそれは通常、目を逸らす、耳を塞ぐといった形で自ら実現できるものでもある。一方、“表現の自由”というものがあって、誰かに見せたいものは見せてよい、ということになっている。この二つがぶつかった時に、“私は見たくないので、その表現は撤回せよ”、あるいは“表現をするな”と言えるとすれば、それが“見たくない表現に触れない権利”ということになる」と説明する。
「ところが、目を逸らすことも耳を塞ぐこともできず、無理やり見せられる、無理やり聞かされるといった環境には滅多にならないので、“それはやめてくれ”ということを権利として他者に主張をすることもあまり起こらない。今回の件について言えば、まずは新聞なので一瞬で目を逸らす、畳むといったことができるわけだ。
一方で、雑誌の表紙にドンと載っている場合とは違って、定期購読している中でたまたま目に入ってしまった、ところはあるだろう。つまり、完全に自分で選んだとは言えないということだ。ただし、一瞬でも見えるのが嫌だと言い出したら、そうしたものはこれまでの広告の中にも山のように含まれているはずだ。
そして地下鉄の事件でも争点になったところだが、広告の収益があることで値下げも可能になるわけで、その意味では“やっぱりちょっとは広告の放送を聞いてもらわないといけないんじゃないの”というのが、判決文にある“受忍範囲”という言葉だ。やはり我慢しなきゃいけないレベルはあるよという一方で、我慢しなきゃいけないレベルを超えたらやはりアウトだろうということだ。
新聞もまた広告が載っているからこその値段なんだよねというところがあるし、“うちはこういう広告は受け付けない”という、表現のプラットフォームとしての指針、基準に従ってやっているはずだ。例えば週刊誌の広告について、ある新聞はそのまま掲載したが、別の新聞は広告に入っていた記事の見出しを黒く塗り潰して掲載したというケースもある。やはり直球のグロ表現、わいせつ表現であれば一瞬目に入るだけだとしてもダメだとなるだろうが、そうでない限りは問題にならないということだ」。
その上で大屋教授は、ハフポスト日本版が『「月曜日のたわわ」全面広告を日経新聞が掲載。専門家が指摘する3つの問題点とは?』という記事の中で“見たくない表現に触れない権利”に言及していたことを踏まえ、「インタビューを受けた治部れんげ先生も、“権利”というのは法的権利のことではなかったと説明している。つまり他人に従えというものではなくて、配慮してくれてもよかったんじゃないかという、道徳的な趣旨だったと。そうすると、それは自由、あるいは日経への信頼という話になってくる」と指摘した。
■佐々木俊尚氏「他の論点とは切り分けて議論しなければならない」
ジャーナリストの佐々木俊尚氏は「表現の自由はリベラリズムの一丁目一番地だ。その権利を守るためには、日経新聞のマーケティングの問題や未成年者の性被害の問題など、他の論点とは切り分けて議論しなければならない。そして“見たくないものに触れない権利”のようなものを認めていたら、世の中のあらゆる表現が消滅してしまうわけで、論外だというのが僕のスタンスだ。批判する自由はあるが、封鎖する自由は無い」と話す。
「例えば戦争報道には社会的意義があるが、『月曜日のたわわ』は趣味だし、僕は全く興味がなくて擁護する気もない。それでも守らなければいけないという話だ。出版の世界で言えば、エロ・グロ・ナンセンスな文化が山ほどあって、その中から育ってきたライターや編集者が『文藝春秋』のような雑誌を作るような、ある種のヒエラルキーがある。そこで『月曜日のたわわ』のようなものや萌え系の文化をどんどん潰していったとしたら、次の新海誠や細田守のようなクリエイターは出てこなくなる。
しかもTwitterなどを見ていると、過激なフェミニストといわれるような人たちの中には、その“見たくないもの”を探してきては炎上させている人たちもいるわけで、それは“見たくないものを見ない権利”なのだろうか。不快なものを認め合わないで、表現の自由や多様性はどのようにして守られるのか。不快だからといって表現の自由を縮め、多様性をなくし、全体主義へと回帰しているだけではないか。価値観をアップデートと言いつつ、逆に守旧的で戦前回帰に近い考え方になっている部分もあると思う。
例えば“not for me”という言葉がある。不快なものがネットでは可視化されてしまうが、でもこれは私のものではないとして距離を置く。そういうエチケットのようなものが今の社会には必要なのではないかということだ。それ無視して人が好きなもの、一人で楽しんでいるものを足蹴にするからみんなが怒る、ということについてもうちょっと考えて欲しい」。
大屋教授は「自由主義経済なので、“not for me”、自分のためではないと思ったら見ない、買わない。これは全く自由だ。ただし、他の人に“買うなと”言っていいのかどうか。“これどうなの?”という指摘はしてもいいと思う。あるいは“賛成しないけれど、あなたの発言権は守る”と言う。これが表現の自由の原理、自由社会の決まりだと思う。そこの境界線は何かということを佐々木さんは問われている。議論するのはいいけれど、キャンセルカルチャーに結びつけるべきではない」とコメント。
また、「これがデジタルであればコントロールする手法はかなり発展している一方で、現代における大きな問題は、見たいものに集中していくことによって、視野が狭まっていくというフィルタリングの課題が出てくる。戦争報道のように、衝撃的なものは見ないでも過ごせてしまうので、伝えるべきことをいかに伝えていくかという技術が報道にも必要になってくる。政治的な問題もそうで、それらは見たい/見たくないではなく、社会の全員が共有しなければならない基盤だ。それは例えばトランプ大統領にネガティブな情報はシャットアウトしてくださいみたいな支持者からの要求を認めていいのか、といった問題につながってくる」とも話した。(『ABEMA Prime』より)
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