自民党の細野豪志衆院議員が11日のABEMA『NewsBAR橋下』に出演。自身の“転身”の経緯を語ると、橋下徹氏も「それが自民党の強さだ」と納得した。
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細野氏は、2011年から2012年に当時の民主党政権で環境大臣と原発担当大臣を務めた後、政調会長や幹事長を歴任。2017年に希望の党の設立メンバーとして結党に携わるも、翌年無所属に。そして、2021年に自民党へ入党した。“転身”の経緯を次のように振り返る。
「無所属になったのは、政策面で2つの旗を立てたかったから。1つは、憲法改正はちゃんとしたほうがいいということで、個人的に具体案を出していた。もう1つは安保国会で、2015年当時は『反対』だけで終わってしまったが、現実問題として受け入れないと外交環境がさらに厳しくなっていた。国民民主党ができた時はまだ安保法制の余波があり、必ずまた野党連携という話になるだろうということで、入る選択肢はなかった。自民党入りを目指すか、政治家を辞めるかの二者択一で悩みに悩んで、かっこいい話ではないけど前者でいこうと。4年という時間はかかった」
この話を受け、橋下氏は「安保法制を全否定したこともあったが、本心では安倍さんの掲げていたものに賛成だった?」と質問。
細野氏は「私は『岡田代表と安倍総理で会談をしたほうがいい』『お互いに歩み寄って法律を作ったほうがいい』と党内で言っていたが、その考えは受け入れられなかった。今でもよく覚えているのは、自民党の政調会長として稲田さん、民主党の政調会長として私がある討論番組に出た時に、『なぜ民主党は案を出さないのか?』『対案を出してちゃんと議論すればいいじゃないか』と言われた。私がそれをやりたいのを稲田さんは知っていたわけだ。結局、自分の本心とできていないことへの矛盾で答えられず、本当に屈辱的だった。辞表を叩きつけると仲間を責めるかたちになるのでしなかったが、『申し訳ないけど、もうテレビには出ない』と。それ以降は政調会長代理の辻元さんがずっと出ていた」と明かす。
自民党入りに対する批判はなかったのか。「想像以上に許しがたいんだなと思ったのは、選挙応援。幹事長や政調会長など党の役職に就くと、いろいろな選挙区の応援に行くわけだ。これは勝ち負けというよりは役員としての仕事で行っているのだが、他の候補者はやはりそういうふうには見ない」。
橋下氏によると、そこで後押しをしてくれるのが“重鎮”二階氏だそうで、「超大型バキューム、“ザ・自民党”だ。いざケンカとなった時にはガッと行くけど、寄ってくる人たちはウェルカム」だという。
細野氏は「かつて二階会長がうちの選挙区の議員の秘書をやっていて地元にとても詳しいので、前からいろいろと相談していた。来るもの拒まずだから『そうか。よっしゃ、わかった』と。二階会長が初めて応援に来てくれたのだが、当時私は無所属で、地元の自民党からは総スカン。私の応援団も必死で、『細野を自民党に』みたいなことを言ったが、目つきが変わって『本当にやるんだろうな?』と。支援者みんながのけぞった。私には『選挙区で圧勝してこい』。あらゆる条件が悪かったけど、しゃかりきになってダブルスコアで勝った。でも、自民党はそこがフェアで、この数字で勝ったら認めるしかないと。細野豪志を尊重するのではなく、選挙区の選択を認めようということで入れてくれた」と説明した。
そうした環境は野党時代にはなかったという。「自民党はいろいろなしがらみを作るのがうまい(笑)。いい意味もあって、例えば派閥でいろいろと助け合ったり、毎週木曜日に昼飯を食べたりしたら情もわくじゃないか。そうすると、政策で揉めた時に“この間、助けてやっただろ。我慢しておけ。次はこういう役職が待っているから”と。政策で最後まで戦い、最後まで決裂するのが民主党。政策としては正しいのかもしれないけど、自民党は貸し借りの世界に持ち込んでいく。その典型が総務会だ。中には反対の人もいて、席を立ってマスコミに『俺は反対したんだ』と言うが、中は全会一致で決まっている。自民党はこういう“歌舞伎”ができる」とした。
橋下氏は「自民党同士が立候補して、勝った人が公認をもらえると。これが自民党の強さだ」とうなずくと、「完全に自民党・細野豪志になっている(笑)。野党の時に議論していた細野さんとはまた違う」と指摘していた。(ABEMA/『NewsBAR橋下』より)