自立を目指した与那国島の姿
元官僚の御園愼一郎(みその・しんいちろう)氏は、およそ20年前、構造改革特区での台湾航路開設を目指していた与那国町とやり取りをしていた。
与那国島周辺(地図)
御園氏は、当時の町長・尾辻吉兼(おつじ・よしかね)氏のことを思い起こして「石垣までの内航航路フェリーがあって、石垣までは120キロ、台湾までは110キロだが、石垣までは行けるのに台湾まではこの船で行かせてもらえないと。これを特区で何とか使えるようにしてくれないかと、尾辻氏が熱い思いを語っていた」と振り返った。
2005年7月、御園氏は与那国島の特区構想の視察のため石垣島を訪れていた。その視察に同行していた尾辻氏は石垣島で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。「尾辻氏が亡くなったのはとてもショックだった。基準に合った船を造ればどちらもいけるのだから、そのための財政支援に話を変えることもフォローしていればできたのかもしれない」(御園氏)
与那国町の自立の取り組みに、コンサルタントとして伴走した上妻毅(こうずま・たけし)氏は、特区での航路開設が認められない中でも、道筋は見えていたと振り返る。「与那国としてやれること項目が明確になったのが、この特区構想だと思う。それをやり続ければよかったのだと今でも思う」(上妻氏)
しかし住民が自立に向けて歩みを進めていた2007年、港に入ってきたのは、台湾からの船ではなくアメリカ海軍の軍艦だった。有事を見据えた軍事化の足音は与那国島にも近づいていたのだ。
上妻氏は自立ビジョンの策定当時「自衛隊の誘致はしない」ことを確認したと明かす。それに反して、2009年ごろから配備の流れが動き出す。町民が進めてきた自立の歩みは、冷や水を浴びせられ力を失っていった。
「自衛隊誘致ということで、他力本願じゃないが、主体性を放棄した。町を挙げて島を挙げて取り組む体制でなくなった。自衛隊問題は町民の間の軋轢や分断、亀裂ばかりになった」(上妻氏)