【写真・画像】8歳で亡命「昼は中国政府に見つかるから夜に歩いた」チベット難民女性の50年の記憶と逃亡の日々 4枚目
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 その後、くるまが難民キャンプの敷地内を歩いていると、1人の男性が「日本から来たのか?」と声をかけてきた。ダウワさんというその男性によると「難民の中には日本で働いている人もいるよ」とのこと。彼自身もいつかは日本へ行くことを望んでいるそうだ。「ここの生活はハードなんだ。ノーマネーだよ」と顔をしかめるダウワさん。一挙一動にユーモアがあるダウワさんに、くるまも「すごい面白いお父さん」と、出会ってすぐ心を掴まれた様子。

 ダウワさんの周りには、たくさんのタンクが置かれていた。ダウワさんは長いホースを見せながら「水が来るのを待っているんだ。1日に1回、1時間しか出ないんだ」と説明。くるまが「これはあなたの家の分?」と尋ねると、「みんなのだよ」とダウワさん。そして「ブッダはこう言ったんだ。もしあなたが貧しくて高価なものを持てなくとも、みんなに一杯の水を分け与えなさい。たとえどんなに貧しくても、誰だって施すことはできるんだ」と続けた。彼の名である「ダウワ」は、チベットの言葉で月を意味する。チベット仏教で月は慈悲の象徴だそうだ。なお、難民キャンプの敷地内には、難民たちが作った小さな寺院があり、そこの水を交換するのもダウワさんの役割とのこと。「朝ブッダにお祈りするんだ。歯を磨いてお祈りして、水を捧げるんだ。寺の水は毎日交換だ。一番きれいな水を捧げているよ」と話していた。

【写真・画像】8歳で亡命「昼は中国政府に見つかるから夜に歩いた」チベット難民女性の50年の記憶と逃亡の日々 5枚目
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 その後、ダウワさんは「私たちはみんなチベットから逃げてきた。難民として何も持たず亡命した。政府も持てなかった。私たちは土地を持っていない。中国にとられてしまったんだ。だから1950年ごろに亡命するしかなかった」と、チベット難民の苦難の歴史を説明。別れ際には「日本でまた会いたいね。行けるように頑張るよ」と笑顔を見せ、くるまと固い握手を交わした。ダウワさんと別れた後、くるまは国境というものについて考えを巡らせながら、次の場所へ。「国境っていうものは人間にとって、著しくオーバースペックなものなのかもしれないですね。人間にとって扱えないものなんじゃないですか」と自身の考えを口にしていた。

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