ある日を境に記憶を失った1人の男性がいる。沖縄県在住の大庭英俊さん、55歳。大庭さんは2006年、それまでの記憶を失った状態で病院のベッドで目を覚ました。
「『名前何だっけ…俺』と思ったのが初め。この手の持ち主が誰なのかわからないから、パニックに陥っている状態だった」(大庭さん)
仕事中に急性心筋梗塞で突然倒れた大庭さんは、13分間もの心停止からなんとか蘇生し一命を取り留めるが、その際「高次脳機能障害」を発症。高次脳機能障害は、脳が著しくダメージを受けることにより様々な障害を引き起こす状態。その1つが記憶障害で、大庭さんは41年分の記憶を失った。
「どこの生まれでどこの育ちかもわからない。家族がいるのかどうかも覚えていなく、強い恐怖感にさいなまれた」(同)
大庭さんの背負った障害はそれだけではなかった。脳がダメージを受ける前の記憶を失うことを「逆行性健忘」という。対して、新しい記憶を作り出すことができないのが「前向性健忘」。大庭さんはこの前向性健忘も併せて持っていた。つまり、今日起きた出来事も明日にはほとんど忘れてしまう。
「目が覚めて最初にするのは、免許証をA4まで拡大コピーしたものを張り付けてあるので、それで名前をまず把握する」(同)
毎日がゼロからのスタート。そのため、一日中メモが欠かせない。そこに書かれた言葉を頼りに、自分と向き合う日々が続いている。
そんな中、不思議と忘れることなく覚えているものがある。「なぜか音楽の知識に関する記憶だけは扉が開いた」と大庭さん。子どもの頃から続けていた音楽。41歳で記憶を失うまで、音楽講師として活動していた。
「自分が担当している楽器はホルン。僕自身は僕という体の器の中で置いてけぼりにされているような感覚。体が自然に反応して、楽譜を見て音を出して演奏してしまっている」(同)
忘れてしまう記憶と無意識に覚えている記憶。なぜこのようなことが起こるのか。脳医学に詳しい専門家に聞いた。
「記憶には、陳述記憶と非陳述記憶という2種類がある。自分が記憶している内容を言葉で表現できるのが陳述記憶。非陳述記憶は言葉に置き換えることができない記憶で、日常の生活や体験の中で体で覚えた記憶。一度脳の中で成立すると消えにくい。いつまで経っても保持できているという性質を持っている」(医学博士・本郷赤門前クリニック院長の吉田たかよし氏)
自分の人生の中で、最も大きな存在だった音楽。それだけは失うことなく、今もなお体に染みついている。大庭さんの人生にとって音楽はどういう存在なのか。
「“すべて”だろう。記憶がないということは自分がないということ。翌日手帳を見て何かができたと書かれてあっても、それは決して自分の記憶ではなく単なる記録だ。せめて以前の僕が残してくれた音楽があるんだから、これで全部やってみよう、動いてみようと思う」(大庭さん)
もう1人、大庭さんとは対照的に失った記憶を取り戻した男性がいる。大和イチロウさん(51)は18歳の時に交通事故に遭い、記憶喪失になった。そんな彼が記憶を思い出すきっかけになったものは何なのか。
「18歳の高校生で食べ盛りだったから、(入院中に)売店に行くことが続いていたらしい。そこで必ず取ったのがカップ麺。ドクターが『もしかしたら元々好きだったんじゃないか』『香りとかは脳に非常に近いところだから、もしかしたら記憶が戻るかもしれない』と」(大和さん)
ドクターの勧めもあり、好きだったインスタントラーメンを食べ続けた大和さんは、次第に過去の出来事が蘇ってきたという。
「学校の給食であったり家で食べたものであったり、食べるシーンから思い出しているのは事実。(思い出した瞬間は)情報量が一気に押し寄せてくる津波みたいな感じなので、良い感じではない。取捨選択できない記憶が蘇ってくる時は、嫌な記憶も良い記憶も苦い記憶も関係なく出てくるので」(同)
そんなフラッシュバックを繰り返し、今ではほとんどの記憶が戻った大和さん。現在は、人生を取り戻してくれたインスタントラーメンの専門店を経営している。
「おそらく記憶というのは、皆さん空気や水みたいに何もない時は感じないと思うが、いざ自分の手からこぼれた時は、それがすごく貴重なものだったんだなと実感するのが記憶喪失。やっぱり記憶というのは自分の財産なんだろう」(同)
まだ多くの謎が残されている、記憶の仕組み。記憶を失うとはどういうことなのか。7日の『ABEMA Prime』は、当事者である大庭さんに聞いた。
■1日の始まりは「思い出すというよりも、新たに知る感じ」
大庭さんは、朝起きるとベッドの上にある拡大された免許証を見て、自分の名前などを確認。ドアを開けると、毎朝初対面状態の母親に挨拶する。そしてメモしたスケジュールを確認して1日を過ごすと、明日の予定を忘れないようにメモをして眠りにつき、またゼロからの1日が始まる。
1日の始まりについて、「思い出すというよりも、新たに知る感じ」と大庭さん。この日の出演も「今朝新たにテレビに出ると知った感じ」だという。
2ちゃんねる創設者のひろゆき(西村博之)氏の「免許証など周りの人が全部証拠をでっちあげて、本当は全然別の人だった可能性もある。それは気にならないのか。『ひょっとしてみんな僕のことを騙しているのではないか』みたいな」との質問には、「今でもそう思って、家族の中でよく言う。騙されてここに連れて来られたんじゃないのかなって。(否定する材料は)全くない」と話す。
映像や画像は思い出しやすいというが、感情も目覚めるたびにリセットされるのか。「僕の場合はまた別の症状で、感情が全部揃っていない。悲しいとか寂しいとか、人を好きになったり嫌いになったりする感情が全くない。目が覚めて何かを感じるわけでもなく、ルーティンワークのように確認作業に取りかかる感じ」。
大庭さんは、「症状はもう一生治らない」と言われたため、記憶を取り戻す作業は試したことがないという。では、大和さんのように記憶を取り戻す例は珍しいのか。
吉田氏は「まず、心因性のもの。例えば女性の方が性的被害にあって、トラウマをきっかけに記憶を失ったりストレスによって記憶障害になってしまう場合は治りやすい。特に匂いで記憶を思い出すのはよくあることだ。医学的にはプルースト効果といって、『失われた時を求めて』という小説の中で、記憶を思い出す有名なシーンがある。香りを元に記憶を思い出すシーンがあってそこから名前がついた。匂いというのは人間の原始的な感覚で、記憶の中枢とすごく太い神経繊維で結ばれているので、きっかけに思い出すことがよくある」と説明する。
一方で、事故などによる物理的な原因の場合はどうなのか。「事故で脳のどの部分が損傷を受けたのか、程度によって大きく異なる。事故やもっと多いのは脳卒中で、脳卒中などで脳の広範囲にダメージを受けると記憶を失ってしまうことがある。脳のどの部分がどのくらい損傷を受けているかにかかっている」と吉田氏。
大庭さんのように記憶を上書きできないという症状もよくあることなのだろうか。
吉田氏は「よくある。元の記憶を思い出せないのは、記憶を想起する、思い出す機能が損傷を受けてしまうということ。逆行性健忘といって、遡ることができなくなる。大庭さんの場合は前方性健忘で、何かあった時にこれから記憶を作れない。主に脳の中の海馬という部分で記憶を作り出しているが、この機能が損傷を受けてしまうと新たな記憶が作れなくなる。大庭さんの場合、ネガティブな感情も起きにくくなったということだが、これはその海馬の隣にある扁桃体という部分が作り出している感情。おそらくこの海馬と扁桃体が両方ともまとめて機能が障害を受けた可能性が高いと思う」と述べた。
大庭さんに好きな食べ物を聞くと、「最近、いただき物のメロンがおいしかった。今思い出した」。
■「明日目が覚めなくてもいいと思えるように、覚悟して最善は尽くしている」
脳がダメージを受けたことで高度な脳機能が正常に働かない「高次脳機能障害」の人は、全国で約27万人いるという。症状としては注意障害・遂行機能障害・社会的行動障害・記憶障害などで、事故などの損傷が多数の一方、トラウマなど心因性によるものもあるという。
では言葉を忘れることはないのか。吉田氏は「脳のどの部分が障害を受けるかによって、症状が一人ひとり全く違う。失語といって、言語中枢がダメージを受けると言葉が分からなくなってしまうこともある。大庭さんの場合は性格が変わらなかったが、そういう方はたくさんいる。中には社会的行動障害といって、粘り強く頑張ることができた人が集中力が続かなくて飽きっぽくなってしまったり、感情を抑えることができなくて人間関係にトラブルが生じるといったことがある」と話す。
注意障害のため、長時間テレビを見続けることができないという大庭さん。インターネットは比較的楽だというが、苦労もあるという。
「パソコンのパスワードは一番困る。もちろんメモするが、メモを見ずにログインしようとして、『ログインできない方はこちらへ』といってパスワードを変えてしまって、それをまた忘れたり」
今回、どのような経緯で取材を受けたのか。大庭さんは「以前にも地元のローカルテレビの取材を受けたことがある。当時はあまり広く知られていない病気だと思ったので、ブログも日記代わりに書き、それを本に出そうと思ってクラウドファンディングも2度ほど挑戦したが、オールオアナッシングで未達で断念した。その代わりに、ブログをローカルブログからメジャーなアメブロに引っ越して、その最中に取材依頼が来た。僕としてはこの症状や障害を知ってもらいたいというのが強くあるので、それもあってお受けした」と説明。しかし、自分のブログも「記録なので記憶にはならない。他人事のような感じ」だという。
一方、音楽に関する記憶だけは覚えていることについては、「基本的に音楽の知識、例えば四分音符や休符、フラットやシャープなどの約束事。それから作曲家の名前や時代、年代別の作風の流れなどは、長年教えていた分だけ染み付いていたんだと思う。今でも、例えばいきなり50人くらいのメンバーの前に立って『ちょっと教えてくれるか』と言われてもできる。言葉でも説明できるし指揮もするし、聴きながらどこが悪いとかどこが良いという判断も音楽に関してだけは同時にできる」と話した。
吉田氏によると、大庭さんのようなケースはよくあることだという。「記憶には陳述記憶と非陳述記憶の2種類がある。それぞれ脳の中で使う場所が違って、陳述記憶は自分が体験したエピソードや学校で習った知識など、言葉で表現できる記憶。これは脳の海馬や大脳新皮質を使って記憶している。一方、非陳述記憶は陳述できない記憶で、つまり言葉で表現できない記憶という意味。楽器の演奏はまさしく非陳述記憶で、脳の大脳基底核や小脳で記憶している。この部分は人間になる前の動物の時代から発達していた部分で、なかなか壊れにくいのでこういう記憶が残っている。大庭さんの場合は、音楽について言葉で表現する陳述記憶も比較的残っているということだが、これもよくあること。演奏の練習をしていたという非陳述記憶は神経細胞のネットワークと繋がりがある」。
記憶障害を持つ人々に対する社会保障などの制度については、「きちんと行政が手厚くしてくれている」と大庭さん。
毎日がゼロからのスタートとなる中で、日々どのような思いで生活しているのか。
「1日1日を忘れるといっても、そんなに強い信念を持っているわけでもなく、『1秒たりとも時間を無駄にするものか』なんてことは思わない。ただ、その時々にやりたいことやできることを淡々とこなしていくだけ。あまり気合を入れずに、本気モードで暮らしていくようなことはしていない。ただ、明日どうなるかはわからないので、明日目が覚めなくてもいいと思えるように、その点は覚悟して最善は尽くすように動いている」
(ABEMA/『ABEMA Prime』より)
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