「猪木さんを“消した試合”」馳浩が語ったグレート・ムタの凄さ 「最後は地獄の底に沈んでほしい(笑)」と冗談も
【映像】独占インタビューでムタを語る馳浩

 80年代末のアメリカマット界で大活躍したグレート・ムタが、日本でその地位を確固たるものとするきっかけとなった試合といえば、1990年9月14日、広島サンプラザで行われた馳浩との一戦だ。この試合でムタは、反則ざんまいの無法ファイトで馳を血祭りに上げ、ベビーフェイスである「武藤敬司」とは違う“悪の化身”としてのキャラクターを確立。日本でも一躍、大ブレイクをはたした。

【映像】独占インタビューでムタを語る馳浩

 そんなムタ人気の立役者であり、武藤の新日本プロレス全日本プロレス時代からの盟友でもある現・石川県知事の馳浩に、1.22横浜アリーナでラストマッチを迎えるグレート・ムタと、2.21東京ドームで引退する武藤敬司への想いを語ってもらった。(取材・文/堀江ガンツ)

― 武藤敬司選手が引退するというニュースは、盟友である馳さんの場合、武藤さん本人からお聞きになったんですか?

馳 いや、まだ何にも聞いてないよ(笑)。

― いまだに聞いてない(笑)。

馳 ホントに引退するの?

― ご本人に確認していただけたらと思いますが(笑)。引退するというニュースを聞いたとき、どう思われましたか?

馳 ヒザのケガがありましたからね。私も靭帯を3回切ってますけど、リングに上がる以前に日常生活がキツイですから。それを考えればよくここまでもたせてきたなと思います。一度ゆっくり休んで、身体の調子が良くなったらまたリングに上がればいいんだよ。

― 馳さんも2度ほど引退されてますもんね(笑)。

馳 私は生涯プロレスラーですから(笑)。でも武藤ちゃんの場合、これで現役の第一線としてはひとつの区切りとなりますから。「いままでお疲れさまでした」と言いたいと思います。

― 馳さんと武藤さんの付き合いは長いですよね?

馳 そうですね。私が最初に新日本プロレスに上がり始めたときは、ちょっとすれ違いだったんですけど。

― 1987年の12月に馳さんが凱旋帰国して、その直後に武藤さんは2度目の長期海外遠征に出ましたもんね。

馳 ただ、自分が(1986年に)カルガリーやプエルトリコでやっていた頃、同時期に武藤選手もアメリカで活躍していたので意識はしていましたし、その後、グレート・ムタとしてWCWのトップになったときは、日本のプロレス界にとって財産だなと思ってましたよ。

― 武藤さんは90年4月に2度目の凱旋帰国後、日本でも素顔の武藤と並行して「グレート・ムタ」というもう一つの顔で試合をするようになり、馳さんはムタの2戦目の相手を務められましたが(90年9月14日、広島サンプラザ)、どんな思いであの試合に臨みましたか?

馳 “チーム・ニュージャパン”の一員として、ムタを盛り上げなきゃいけないという気持ちでしたね。ムタの第1戦はちょっとコケたんでね(笑)。

― 第1戦のサムライ・シローとの試合は、名前とコスチュームが違うだけで、ほとんど武藤敬司vs越中詩郎と変わらなかったんですよね(笑)。 

馳 だから第2戦はやっぱり気をつかいましたよ。日本でやるなら“日本スタイルのムタ”が必要だと思ってましたから。そういう意味では大変な仕事ではありましたし、テレビ中継のメインイベントというプレッシャーもありましたけど、自分なりにいい作品を残すことができたなとは思います。

― あの試合の結果は、ムタが馳さんを大流血に追い込んでの反則負け。“悪の本性”を初めて露わにしたということで、“ムタ史”に残る重要な試合になりました。それと同時に、馳さんにとっても重要な試合だったんじゃないですか?

馳 当時は二流レスラーだった僕を一流に引き上げてくれた試合と言ってもいいんじゃないかな。お客さんに馳浩というレスラーを印象づけられたという意味ではムタのおかげですよね。

― ムタ戦の3カ月前、馳さんは後藤達俊選手のバックドロップで欠場に追い込まれてたんですよね。

馳浩 試合直後に心肺停止になって死の淵をさまよって、そのあと復帰したばかりで組まれたのがムタとの試合でしたから。僕自身もナーバスになってましたし、プロレスラーをこのまま続けていいのかどうか考えた時期でもありました。そういう中で、吹っ切れるような試合ができたのは、ムタのおかげですよね。

― 対戦してみてムタはどう感じましたか?

馳 「世界のスーパースターだな」っていうのを肌で感じましたね。ただ、日本のファンがそれを受け入れられるかどうか。そのリトマス試験紙が俺なんだな、と思いましたね。あの時、世界で名を上げたグレート・ムタとはなんなのかっていうのを日本のファンが知りたがっていたと思うんですよ。いざやってみて「ムタっていうのは、ただ武藤敬司がペイントしただけだった」という言い方をされたくなかったので、ムタの本性をどう引き出すのかということを、いろいろと考えましたね。

― 結果的にムタは馳浩戦で大ブレイクして、その後、新日本でのビッグマッチの切り札になりましたよね。

馳 そうですね。ビッグマッチのたびに、猪木さん、天龍(源一郎)さん、長州さん、ハルク・ホーガンら、数々の大物とやりましたけど、どんな選手とやっても「グレート・ムタの作品」になりましたよね。

― 馳さんはご自身の試合以外で、誰とムタの試合がいちばん印象に残っていますか?

馳 やはり福岡ドームで猪木さんを“消した”試合ですね(94年5月1日)。あの試合では、アントニオ猪木というレスラーが消された。さすがだと思いました。だからムタと長州がやっても長州の試合にならなかったし、ムタと猪木がやっても猪木の試合にならなかった。そこがムタの強みだったと思います。

— そのグレート・ムタが1月22日の横浜アリーナでラストマッチを迎えます。ライバルだったスティングとタッグ(トリオ)を結成しますが、最後はどんな試合を期待しますか?

馳 ムタとスティングのカードは旧NWA、WCWのドル箱でしたからね。80年代、90年代のアメリカンプロレスそのものを見せてくれることを期待したいですね。そして最後はムタに地獄の底に沈んでほしい(笑)。ハッピーエンドにはしてほしくないですね。

― 悪の化身であるムタには、地獄がふさわしい、と(笑)。その後、「武藤敬司」にはどんな最後を期待しますか?

馳 まあ、引退ロードでずいぶんカネを稼ぐだろうから、そういういやらしいところを見てみたいよね(笑)。アイツはああ見えて計算高いから。

― 武藤さんの引退試合は2.21東京ドームという大会場で行うだけじゃなく、ABEMAPPVで有料配信されるんですよ。

馳 やっぱりアイツらしいな。引退するなら、ちゃんとしっかり稼ぐっていうね(笑)。

― 自分が稼ぐことにプラスして、この引退試合で日本のプロレスにPPVを定着させて、プロレスラーが今よりワンランク上の稼ぎ、ステータスを得られるような土壌を作って去りたいという思いもあるようです。

馳 それは武藤敬司にしかできないことですね。武藤の後を継ぐのは誰なんだろう? 新日本のオカダ(カズチカ)、あるいはノアの清宮(海斗)であってほしいですよね。ただ、武藤には「遺伝子を残したい」っていう面と、「俺さえ良ければいいんだ」っていう両面があるからね。武藤選手に道徳的なことはあまり期待しないほうがいいです(笑)。

― 自己愛が強いからこそ、武藤さんが稼ぐことによってあとに道ができるみたいな感じですかね。

馳 その通りですよ。ゴーイング・ムトウ・ウェイだからね。最後の最後までわがままな、いつもの武藤ちゃんでいてほしいです。

― 元日の日本武道館でWWEのシンスケ・ナカムラ(中邑真輔)と対戦し、1.4東京ドームでは新日本ラストマッチを行い、1.22横浜アリーナではAEWのスティングとタッグを結成します。なぜ、武藤敬司だけがあらゆるメジャー団体の垣根を越えることができるんだと思いますか?

馳 それは簡単なことですよ。それが真のレジェンドということじゃないですか。それだけ多くのプロレス関係者からリスペクトされているし、これまで関わった団体にカネを落としてきた。自分の身体を傷つけてまでも世界中のプロレス界に貢献してきた姿勢が評価されているだけであって、それがザ・武藤敬司ですよ。

― たしかに武藤敬司だから、グレート・ムタだからこそ、中邑選手もスティングも日本に来ようと思ったし、WWEやAEWも派遣を許した部分があるでしょうからね。

馳 武藤敬司がこれまでやってきたことは、誰もが認めざるを得ないと思います。ただ、映画はコケたけどね(笑)。

― 主演映画『光る女』(86年)がコケて、映画界には貢献できなかった(笑)。

馳 引退試合の時、東京ドームの大画面に『光る女』を流してやればいいのに。アイツ、絶対に嫌がるよ(笑)。

― 入場前に動揺する武藤敬司が見られるかもしれない(笑)。

馳 ちょっと動揺させたらいいんだよ(笑)。

ー では、『光る女』はともかく(笑)。引退まで1カ月近くとなりましたが、友人であり盟友、戦友でもある武藤さんに何か引退に向けてのメッセージをお願いできますか?

馳 自分が納得いく作品を刻んでほしいなと。それは間違いなくファンのみなさんの記憶にとどめられると思いますので。期待してます。

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