東日本大震災の発生から14年。千葉・旭市で震災を経験し、防災の大切さを子どもたちに伝え続ける1人の女性を『ABEMA Morning』は取材した。
茨城県神栖市で行われた防災教室。企画したのは、千葉・旭市を拠点に防災活動に取り組む「トリプルアイプロジェクト」である。代表の大木沙織さんがこの活動を始めたきっかけは、中学3年生のときに経験した東日本大震災だという。
中学卒業間近だった大木さんが目撃したのは、生まれ育った街を襲う津波だった。14年が経った今、震災を知らない子どもたちに防災の大切さを伝え続けるその想いとは…。
2011年3月11日に発生した東日本大震災。その被害を受けたのは、東北だけではなかった。千葉・旭市では震度5強の地震のあと、最大で高さ7.6mの津波が襲来し、16人が犠牲になった。2014年には、震災の記憶を後世へと伝えるため、旭市防災資料館が開館した。
「震災当時に津波が来た時間ですね。それで(時計の針が)止まっています。実は津波は3回来ました。1回目は3時50分に4.5m。2回目はその30分後に2〜3m。それで終わりかと思ったらその1時間後に7.6mが来ました。(時計の針が止まっているのは)3度目の津波の時間ですね」(旭市防災資料館・宮本英一さん)
旭市で生まれ育ち、現在も旭市内に住む大木さんは、中学3年生のとき震災を経験した。中学時代は部活動でバレーボールに打ち込んでいたという大木さん。しかし、その思い出の場所である飯岡中学校は津波による床上浸水の被害に遭い、1kmほど内陸の場所に移された。現在、跡地は市のサッカー場とその駐車場になっている。
「(震災当日、大木さんはこの場所の校舎にいたんですか?)はい。教室で帰りの会ぐらいの時間で、ちょうど卒業式前だったので、卒業アルバムがその日配られて教室でみんなでワイワイ見ているところで地震がきました」(大木さん、以下同)
その後、大木さんは家族の迎えで自宅へ一度戻った。ところが、高台にある親戚の家に避難しようと準備していたとき津波がきたという。
「玄関の扉を開けてみたら、もう家の前が黒い波というか川みたいになっていて、幸い玄関の数cmぐらいまでで止まりましたけど、そのときは『あ、もう無理かもしれない』と思いました」
その後、なんとか避難することができたという大木さん。中学校に戻ることができたのは、それから1週間後の卒業式の日だった。
「余震が続いていたので、式中も揺れていました・卒業式が終わったらもう帰ってという感じで、友達とのお別れもあっけない感じでした」
大木さんは高校を卒業後、神奈川県内の大学に進学。当時のある出来事を振り返り、こう述べた。
「自己紹介とかで『千葉県旭市出身です』と話しても、特に何も。東北出身の子たちとかは『大丈夫だった?』と先生たちから言われることは多かったんですけど、それで知られていないんだなって実感しました」
これからの子どもたちに伝え続けること本記事は自動文字起こしツールや生成AIを利用していますが、編集部の確認を経て公開しています。