目撃情報もなく、捜査は難航した。代里子さんは事件直後、たった1人で息子が亡くなった現場に立ち、行き交う車を調べ始めた。事件が起きた時間帯に通る車の数や、運転手の性別を1台1台確認して記入。現場の道は生活道路のため、犯人は土地勘のある人物のはずだと推測し、もちろん再びこの道を通るはずはないと思いながらも、手がかりを集めた。

 その後、偶然その姿を見たママ友たちが加わり、さらに克明に記録していった。車はどの方向から来て、どちらに曲がったのか。再び同じ車両が、この道を通る時間帯まで記した。調べた車の数は約10万台にのぼった。

 すると、現場を通る車の多くは、熊谷市内ではなく、近隣の市や県に帰って行くという傾向に気付いた。その地域に出向いてビラを配り、特定の外国人が多く住む場所では、その国の言葉で作ったビラも配った。代里子さんは「本当にお母さんたち(ママ友)のおかげなんです」と語る。それでも有力な情報は得られなかった。

2019年に時効が20年の「危険運転致死罪」に罪名を切り替え
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