
幕末の日本を大きく揺るがした黒船来航。その舞台となったのは、神奈川県南東部、三浦半島の大部分を占める横須賀市の中にある浦賀と久里浜。そこには、今も歴史の息づかいを感じさせる場所が残されています。
【画像】当て字で「ペリー」 書いたのは初代内閣総理大臣・伊藤博文
大河ドラマの時代考証などで知られる歴史のスペシャリスト・山村竜也さんの案内で、その足跡をたどります。
ペリーが開国要求した広場
山村さん
「幕末にペリー率いるアメリカ艦隊がやってきて、日本に開国を要求した場所なんですね」
1853年、現在の久里浜にあるこの海に、ペリー率いる4隻の黒船が突如姿を現し、日本中が大騒ぎになりました。これをきっかけに日本は開国し、明治維新へと一気に突き進むことになりました。
当時ペリーが降り立った日本の地には、今でも尊王攘夷の志士が書き残した文字が刻まれた石碑があります。それは、海岸からすぐ近くの広場、その名もペリー公園にあります。この広場でペリーとの交渉にあたった幕府は、いきなりプレッシャーをかけられることになりました。
「ペリーの一行は300人が上陸したと言われますけど、その特設会場がここにあったという」
住田紗里アナウンサー
「結構な人数がここのスペースに来たんですね」
山村さん
「向こうも圧力をかけようとしたんですね。こちら、北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑とあります」「伯理(ペリー)と漢字で書いてありますね。当て字です」
この記念碑の文字を書いたのは、日本の初代内閣総理大臣・伊藤博文です。総理経験者が記念碑の文字を書くということは、最初から友好的だったということなのでしょうか。
住田アナ
「それほど、ペリーが来航してきたことをポジティブに捉えていたっていう考えでいいんですか?」
山村さん
「いや、幕末の当時はネガティブでしたね。でも、幕末から明治にかけて、外国と付き合うことが有益であると、だんだん気づいてくるわけですね。最初、彼らは尊王攘夷の志士と言われていたんだけども、『いや、それはちょっと遅れている』と開国をして、外国と対等に付き合っていくんです。これがいいんだって段々分かってきたので」
住田アナ
「だからこそ、こういう記念碑もあるのかもしれないということですね」
黒船への危機感が生んだ造船の拠点
しかし、幕府は黒船を目にして、海の防衛の必要性を感じ、軍艦造りに動き出しました。続いて2人が向かったのは、そんな史跡がある場所です。
山村さん
「ここに、大変貴重な遺跡があるんですよ」
住田アナ
「すごーい!え、これ何ですか?」
山村さん
「これはね、浦賀造船所というんだけど、通称・浦賀ドックといいます。要するに船を作ったり、修理したりする、そういう場所です。日本でペリーが来航した翌年には早くも西洋式の軍艦、鳳凰丸というんだけどね、それを第一に作った」
住田アナ
「早いですね」
山村さん
「そうなんです。それはね、まだ造船所の形をなしてないんですよ。川の河口でなんとか作ったっていうね」
住田アナ
「もうまさに、ペリーが来たことによって、その危機感からじゃないですけども、きっかけでできたといっても過言じゃないんですか?」
山村さん
「そうですね」
その後に作られた浦賀造船所では、旧日本海軍の軍艦や駆逐艦、民間船の修理や建造を行い、造船技術の成長を支え続けていました。
今では日本で唯一、見学可能なレンガ造りの造船所として、大変貴重な史料になっています。さらに、日本で初めて太平洋を横断した船「咸臨丸」も、この場所に関係しているようです。
住田アナ
「幕末だと、咸臨丸とか結構有名じゃないですか?そういったものも、ここは使っていたんですか?」
山村さん
「ここができる前、まだ河口で造っていたころに、咸臨丸は整備していましたね。整備をして、出来上がったということで、アメリカまで太平洋を横断した、出発したということですね」
住田アナ
「限られた技術の中で頑張っていたわけですね」
ペリー来航見張った山頂砲台
続いては、海岸沿いの山の中にある施設へ移動します。そこには、日本の海を守り続けた砲台の跡があります。ペリー来航の時にも海を守っていた場所です。
住田アナ
「ここはどういった場所なんですか?」
山村さん
「ここに書いてあるんですけど、千代ケ崎砲台跡」
住田アナ
「砲台ということは鉄砲とか大きな…」
山村さん
「大砲ですね。そういったものが備えてあった、明治陸軍の施設の跡なんですね」
千代ケ崎砲台は1892年~95年にかけて、陸軍によって建設されました。山の上に砲台、そして山の中には砲撃のために必要なトンネルを掘った軍事施設があり、今でも明治時代に造られた軍備の跡を見ることができます。
住田アナ
「声響きますよ。すごい。トンネルみたいですね」
山村さん
「ジブリか何かのアニメに出てきそうな、そんな施設でしょう?」
住田アナ
「はい。これ何のための地下施設なんだろうって」
山村さん
「明治になってからなんだけど、陸軍の施設として砲台が作られて、弾薬とかも下に備えてあります。それを上に送りこんで、上でそれを受け取って大砲を打つという」
左右にある部屋の中には、弾薬を送るための穴も当時のまま残されています。明治時代に造られたこちらの砲台ですが、それより前、ペリー来航の時にもこの場所から警備していたそうです。
住田アナ
「おー、ここまで来ると、海がしっかり見えますね」
山村さん
「広がっていますね」
住田アナ
「なんでこの砲台は、この場所にできたんですか?」
山村さん
「ここ平根山は、会津藩が守備していた場所なんですね。浦賀奉行所があったころからそうなんだけど、ここはそういう重要な拠点があったと」
住田アナ
「管理する人は変わったけど、やっぱりこの場所は同じような機能をずっと果たしてきたって、そういうことなんですか?」
山村さん
「そういうことです」
時代は変わっても、この場所から浦賀の海を守ってきたのです。
役職を偽りペリーと交渉
続いて向かったのは、浦賀造船所のすぐ近くにある叶神社です。ペリーとの交渉を行った香山栄左衛門らと関係が深く、功績をたたえる石碑が祭られていますが、その功績には、役職を偽ってペリーとの交渉に挑んだというとんでもない背景がありました。
山村さん
「幕末の浦賀奉行与力を務めた香山栄左衛門の記念碑ですね。香山栄左衛門がペリー来航の時、折衝をした」
住田アナ
「与力ですよね」
山村さん
「与力ですけど自分が責任者というふうに言い張って、そして、ペリーと折衝した」
住田アナ
「それって、自分がもう奉行だって言っちゃうぐらいのことですか?」
山村さん
「そうですね」
住田アナ
「なぜ、そんなこと言ってしまったんですか?」
山村さん
「奉行与力であれば、それは任にあたれるだろうっていうことだね」
幕府の責任者との交渉を望むペリーに対し、香山は自らを「浦賀奉行である」と偽って交渉にあたっていました。
「香山というのは優秀な人間でね、そのやり取りがとてもうまかった。そのおかげで、ペリーとの折衝がスムーズに進んだと言われていますね。最後まで嘘をついたわけではなくて、前段階を務め、地ならしをして、最終的には本当の奉行を連れてきて、日米和親条約に持っていったという人ですね」
(2026年5月29日放送分より)
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