1日(日)午後5時からインターネットテレビ番組『新春スペシャル対談「あなたの夢、何ですか?~三浦知良×大谷翔平」完全版!!』(AbemaTV)が放送された。
本番組は、2017年に50歳のシーズンを迎え、Jリーグ最年長ゴールを更新し続ける“キングカズ”ことサッカーJ2リーグ・横浜FCの三浦知良選手と、投手と野手の“二刀流”としてパ・リーグMVPに加え、史上初のベストナインW受賞に輝いた、現在、メジャーリーグからも熱い注目を浴びるプロ野球・北海道日本ハムファイターズの大谷翔平選手が、人生の「原点」と「転機」を振り返り、“未来の夢”を今どのように描いているのか「アスリート人生で抱いてきた夢」をテーマに対談を行った。
大谷選手が三浦選手のブラジル時代、培われたハングリー精神やプロフェッショナルとしての姿勢に迫る。
大谷:ブラジルに行ったときは「行きたい」っていう気持ちからですか?
三浦:「行きたい」っていうもう思いが強過ぎましたね。
ブラジルは学校単位のチームではなくて、プロを育成する各ユースがあって、僕はブラジル人しかいない寮に入ったんですけど、みんなハングリー精神を持って「自分がプロで成功して家族を助ける」という気持ちで戦っている。日本の高校、中学の部活の精神とは全然違う。ユースの子たちでも「お金をもらって」という、そこがすごく強いですね。
だから僕に対して、「日本の裕福な子がブラジルに来てなにをするんだ」って思われました。露骨ではないけど、俺たちの邪魔をするなという目もあった。そういうカルチャーショックもありました。
レベルの高さにもくじけましたね。やればやるほど差がわかってくる。最初は自分もやれるんじゃないかなってものがあるんですけど、知れば知るほど差を感じて、プロがあって、僕はその一個下のところにいたんですけど、争って上の人を超えていかなきゃいけないんだと思ったときに正直言って挫折感みたいなものはありましたね。無理だなっていう。
「無理じゃないか」「無理じゃないか」という気持ちでやっていたので、あまりうまくいかなかったですね。ダメじゃないですか、「自分はやれる」という気持ちでやっていかないと。「俺どうするんだ?」「どうなるんだ?」という不安でいっぱいでしたね。
大谷:変わったきっかけみたいなのはあるんですか?
三浦:プロの一個手前の甲子園、プロへの登竜門みたいな大会に出たんですね。その1年目、僕は17歳の時に出て、打ちのめされたんですよ、全然通用しなくて。新聞がめちゃくちゃ叩くんですよ、ダメだったらプロみたいに叩かれるんですよ。「あの日本人はいらない」とか日本人にすぐ攻撃がいって、それで余計に自信を無くしていくというか。
それが、1年後に、サントスというチームで出て大活躍したんですよ。それがきっかけでしたね、ブラジルはプロと同じ応援団がジュニアにもくるんですよ。その人たちが良いプレーに対して、カズコールをやってくれたり、自分の中で変わってきましたね、いけるかもしれないと。
それで、プロに引き上げられて、プロになれたんですけど、また違うレベルでプロの壁がありましたね。そのままいけると思ったんですよ。練習ではいけるんですけど、本番だと通用しない。プロってそういうところありません?
大谷:そうですね。勝てば褒めてもらえるけど、負けると結構ボロクソじゃないですか。ブラジルもあんな感じなんですよね?
三浦:僕はブラジルに15歳から23歳までいたんですけど、ブラジルでのプロの考え方だったり、毎日毎日、1つの紅白戦から練習まで勝負で、それを勝ち抜いた人しか残れないっていうブラジルでの経験は30年経ってもいつも自分の中にあります。
油断しないというか、サッカーに関しては誰がどこで見ているかわからない、どこにチャンスがあるかわからないっていう気持ちでやっていますね。
だから、どこかでサッカーの試合があるっていえばどこでも行きたいです、呼ばれたら。もしかしたら、誰かが来て見てくれているんじゃないか、もしかしたら海外の人が来て見てくれているんじゃないかって、サポーターに混ざってスカウトが来ているんじゃないかっていう気持ちでやってますよ。
それはブラジルで植え付けられたもので、日本の今の選手はそういうのないですよ。これは、あくまで自分の紅白戦だ、僕は何か可能性を広げるためのテストの場だといつも思っていますよ。田舎に行って何にもないようなところでも、誰かいるんじゃないかって気持ちでやっていますよ。
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