土俵入りでは雄姿をお披露目したのに、そのわずか約1時間半後の取組は不戦敗。八日目、大関高安休場の場内アナウンスを聞いた館内の観客は、すぐには事態が呑み込めなかったに違いない。この緊急事態に取組編成を預かる審判部は大わらわだった。すでに翌日の取組は発表されていたが、割り返しとなり2日連続の不戦敗は免れた。急性の腰痛を発症させた本人は再出場の意向を示していたが十日目の割にも入っておらず、カド番脱出は極めて厳しい状況となった。
前代未聞の珍事であるが、平成16年(2004年)一月場所九日目には十両の栃乃花が支度部屋で準備運動の最中にぎっくり腰を発症させ、当日になって急きょ、不戦敗となった例がある。ちなみにこのときは土俵入りの前だった。
さかのぼって平成元年(1989年)秋場所十二日目には、幕内の富士乃真が土俵下控えに座っていると取組中の力士が土俵下に落ちてきて左足に直撃。このアクシデントに富士乃真は立ち上がれなくなり、あえなく不戦敗。左足首骨折の重傷を負い、すでに対戦相手が決まっていた翌十三日目も不戦敗となり、珍しい2日連続の不戦敗となってしまった。
年6場所制となった昭和33年(1958年)以降、2日連続不戦敗の例はこれ以外、平成17年(2005年)夏場所、十両で五城楼が喫している。七日目の琴春日戦で物言いがついたがこの取組で右膝を痛めて土俵に立てなくなり、取り直しの一番を棄権。琴春日の不戦勝となり、五城楼は翌八日目も休場届をすぐに出さなかったために割が組まれ、2日連続不戦敗となった。
逆に関取衆が引退を表明すると最後は不戦敗となるのが普通だが、元関脇益荒雄は十両で迎えた平成2年(1990年)名古屋場所、十三日目の琴白山戦に敗れて引退を表明するも取組編成の前だったため、翌十四日目は不戦敗にはならなかった。十両の翌日の取組が決まるのが通常、中入直前ごろのため、十両力士が引退するときはこうしたケースがいくつか見られる。
▶映像:高安の休場で不戦勝を告げられる宝富士(22分ごろ~)
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