4年に一度のサッカーの祭典、FIFAワールドカップ・カタール2022が11月20日に開幕。今大会では、なんと全64試合をABEMAが無料生中継します。ならばNumberも一緒に大会を盛り上げようということで、「Number渋谷編集室 with ABEMA」を期間限定で開設し、従来のNumberとは一味違ったコンテンツをNumberWebを通じて配信。渋谷編集室のスペシャル編集メンバーで、フォトグラファーの近藤篤さんによるW杯フォトエッセイ「on that moment」をお届けします。

 2002年の6月26日だった。僕はソウル市江南区にあるホテルの一室で目を覚ました。

 前夜のW杯準決勝第一戦、ドイツは後半半ばにバラックが決めたゴールを守り切り、1−0で韓国を下し決勝進出を決めた。撮影を終えてホテルに戻ってきたのは深夜1時過ぎだった。チェックインを済ませ、廊下を奥に進み、鍵を開けてドアを押すと、狭い部屋の真ん中に円形のウォーターベッドがあった。それはホテルというか、ビジネス街の雑居ビルにあるちょっといかがわしいラブホだった(2002年W杯はどこも宿泊施設不足、特に韓国ではそれが顕著だった)。僕はその奇妙なベッドの上にそのまま倒れ込んだ。

 曖昧な記憶の中、枕の上で首を回し小さな窓の方に目を向けると、ヤニと埃で黄ばんだカーテンが明るく光っていた。左手首につけた時計に目をやった。午前10時だった。?! 0.001秒で完璧に目が覚めた。

 僕はその日の午前11時30分発の飛行機に乗って帰国し、羽田空港から電車を乗り継いで埼玉スタジアムに行き、ブラジル対トルコ戦を撮影することになっていた。「ラブホで寝過ごしてW杯準決勝を撮り損ねた男」。人生で色々失敗はやらかしてきたが、これが現実になれば失敗のレベルが違った。初デートで相手の女性をそれまで付き合っていた女の子の名前で呼んでしまったのが“J3レベル”だとすれば、これはもうまさしく“W杯準決勝レベル”の大失態だった。

 3分で荷物をまとめ、ホテルを飛び出すと、タクシーを探した。しかし朝のビジネス街ではどのタクシーもお客を乗せていた。受付のおばさんは心配して一緒についてきて、慌てふためく僕の背中をさすり続けてくれた。ようやく一台の空車が目の前に止まったが、ドライバーは「そっちには行きたくない!」と拒否する。おばちゃんがものすごく大きな声で彼を恫喝し、ようやくタクシーは仁川空港へと向かい始めた。僕は窓を開け、大声でおばちゃんに叫ぶ。カムサハムニダー! だが、時刻はすでに10時半、ソウル市内から空港までは道が空いていても1時間、どう考えてももう飛行機には間に合わなかった。

便利で奇妙で困惑のW杯体験

 メキシコで一度目、イタリアで二度目、その次のアメリカ大会とフランス大会はカメラマンとしての申請が許可されず、2002年日韓W杯が僕にとって三度目のW杯だった。

 日本と韓国、W杯史上初となる二カ国共催となるまでには紆余曲折あった。1989年、最初に候補地として名乗りを上げたのは日本で、その数年後に韓国も正式に立候補した。韓国はすでにW杯に何度も出場し、日本はいまだW杯は未経験。実績から言えば韓国、でも先に手を挙げたのは日本。当時のFIFA会長ジョアン・アベランジェは日本単独開催を推し進めたがったが、長期にわたってFIFAを牛耳ってきたこの老獪なブラジル人に欧州の理事たちは反発し、アフリカ諸国の票を韓国へと取り付けた。欧州勢に対して勝ち目がないと見たアベランジェは最後の最後でこれまでの主張を翻し、自ら日韓共同開催を宣言することになった。

 とまあ、政治的な生臭い話はどうでもよくて、古いサッカーファン、我が国のサッカーがどうしようもなく弱かった時代を知るファンにとっては絶対にあり得ない出来事、日本という国でW杯(の半分)が催されることになったわけである。

便利で奇妙な自国開催

 だが、自宅から出かけるW杯、それはある意味で便利ではあるけれど、奇妙な体験だった。当時、僕は東京都世田谷区に住んでいて、そこから小田急とJRと埼玉高速鉄道を使って埼玉スタジアムへ行き、新幹線に乗って仙台や新潟や大阪へ行った。メキシコではアステカスタジアムに向かう途中でタコスを食べ、イタリアではサンシーロでの試合前にピッツァを食べたが、今回は長居スタジアムからの帰り道、新大阪駅で551の豚まんを買って帰ることになった。横浜にあったメディアセンター内の売店では、おにぎり(梅とシャケと昆布)とサンドイッチしか売っておらず、外国からの記者やカメラマンは困惑していた。梅と昆布が食べられる外国人はあまりいない。

日韓大会ではチームを牽引する中心選手として活躍した中田英寿。チュニジア戦ではW杯初ゴールも記録した ©Atsushi Kondo
日韓大会ではチームを牽引する中心選手として活躍した中田英寿。チュニジア戦ではW杯初ゴールも記録した ©Atsushi Kondo

 ピッチの中に目を向けると、こちらでも困惑するような出来事の多いW杯だった。アジア特有の湿度にヨーロッパ系の選手は四苦八苦。フランス、ポルトガル、アルゼンチン、三つの優勝候補がグループリーグで早々に姿を消した。

 共催国・韓国は、ポルトガル、ポーランドそしてアメリカという相当厄介なグループを見事一位で通過していた。オランダの名将フース・ヒディンク監督(4年後にはオーストラリア代表監督として日本の行く手に立ち塞がった)は韓国を本当にタフなチームに仕立て上げた。しかし決勝ラウンドに入ってからは、スペイン、イタリアを下してベスト4に進出したものの、レフェリーのとんでもないミスジャッジに助けられ続けたという印象が強くなってしまう。ちなみに、イタリア戦の笛を吹いたエクアドル人審判バイロン・モレノはその8年後、ニューヨークの空港でヘロインの大量保持で逮捕され、30カ月の懲役刑を受けている。

 そして我らがサムライブルーは、初戦のベルギーを相手に2−2で引き分けた後、続くロシア戦では1−0で勝利、第三戦のチュニジアにも2−0で快勝し、見事グループ首位でベスト16へと駒を進めた。もし史上初めての予選リーグで敗れた開催国になったらどうすんだ! そんな危惧する声が大会前にはあったが、蓋を開けてみれば日本代表は堂々たる戦いを演じてみせた。

 今になって思えば、あのチームには中田英寿、小野伸二、稲本潤一といった、錚々たるメンバーがいた。まるで何世紀かに一度起こる惑星直列のように、日本サッカー史上最高の才能を持った世代だったと思う。だから、ちゃんとした準備をして、ちゃんとした戦術で挑めば、それなりの結果は残せて当然だったのかもしれない(だって中田と小野が中盤にいるんだから)。

 彼らの才能をもってすれば日本はベスト16どころか、ベスト8まで進めるポテンシャルをじゅうぶん秘めていたような気もする(ベスト8の相手はセネガルだったから、そこも突き抜けてブラジルとの準決勝に臨んでいたかもしれない)。しかしながら、グループリーグ突破で「名監督」と評されたエキセントリックなフランス人は、ベスト16のトルコ戦でなぜか奇策を思いつき、自ら崩壊してしまった。だから、個人的には残念だという印象が強い。

黄金世代の代表格である小野伸二が、3回出場したW杯で最も輝いたのが日韓大会だった ©Atsushi Kondo
黄金世代の代表格である小野伸二が、3回出場したW杯で最も輝いたのが日韓大会だった ©Atsushi Kondo

謎のボーディングパス

 6月26日、仁川空港にタクシーがついた時、乗るはずだった飛行機は離陸した後だった。W杯開催中、ソウルー東京間のフライトを確保するのは一苦労だった。特に決勝ラウンドに入ってからは、一つの試合ごとに多くのファンとメディア関係者が大移動を繰り返していた。

 僕は航空会社のチケッティングカウンターに行き、係の女性に乗り遅れた航空券を差し出した。彼女はデスクの上に置いてあったウェイティングリストを僕の方に押し出し、「ここにあなたの名前を書いてください」とクールに言った。リストには無数の名前が書いてある。こんなにたくさんの人がラブホで寝過ごしたのだろうか。

 僕はそのリストの最後に自分の名前を書き加え、彼女に聞いた。「あの、今日の午後3時までの便に乗れる可能性はどのくらいありますか?」。彼女はちらと僕をクールに眺め、デスクの下から一枚のボーディングパスを取り出すとこう答えた。「これで次のフライトに乗れますから、受け取りのサインをお願いします」

 ??? いったい何がどうなっているのか全くわからなかったけれど、僕はありがたくそのパスを受け取り、書類にサインをすると、猛ダッシュで出国手続きのゲートへと走って行き、無事その日の夜の埼スタでブラジル対トルコの試合を撮る事ができた。

準決勝でブラジルに破れ、悲嘆に暮れるトルコサポーター。トルコ代表は韓国を破って3位となり、代表史上最高成績を残した ©Atsushi Kondo
準決勝でブラジルに破れ、悲嘆に暮れるトルコサポーター。トルコ代表は韓国を破って3位となり、代表史上最高成績を残した ©Atsushi Kondo

観客席から見た大会の終わり

 その4日後、2002年日韓W杯はブラジルの優勝で幕を閉じる。

 僕はこの決勝戦、カメラマン数の関係でピッチには入れてもらえず、観客席から写真を撮ることになった。会場となった横浜国際スタジアムはスタンドからピッチまでずいぶんと距離があるので、いい写真はほぼ撮りようがない。試合開始前にカメラマンとしての僕のW杯は終了、あとは観客気分で試合を撮るというよりは眺めていた。

 主審のイタリア人コッリーナ氏は90分間まともな笛を吹き続け、前線に3R(ロナウド、ロナウジーニョ、リバウド)を揃えたブラジルは、相当強いはずのドイツ相手に特に苦労することもなく、後半ロナウドが決めた2点を守り切って5度目のワールドカップを手に入れた。

 試合終了後、ゴールポストに背中をつけて座り込んだドイツの守護神オリバー・カーン、表彰式でトロフィーを掲げて喜ぶブラジルチーム、そして僕の陣取ったカメラマン席のすぐ下の通路を歩き過ぎてゆく藤原紀香さん。僕にとっての2002年6月の記憶はここで終わることとなる。

決勝戦で大会初の1試合2失点を喫したカーン。準決勝までに奪われたのは1ゴールのみとドイツ代表を牽引した ©Atsushi Kondo
決勝戦で大会初の1試合2失点を喫したカーン。準決勝までに奪われたのは1ゴールのみとドイツ代表を牽引した ©Atsushi Kondo