2人合わせて「ワールドカップ25大会」を取材した、ベテランジャーナリストの大住良之と後藤健生。2022年カタール大会でも現地取材を敢行している。古きを温め新しきを知る「サッカー賢者」の2人がカタール・ワールドカップをあらゆる角度から語る!

■クロアチアの安定感

 期待どおりの、いや、期待以上の3位決定戦だった。クロアチアもモロッコも7戦目。大会初戦で対戦してから25日間での戦いで主力の何人かを欠きながらも、最後まで闘志を失わず、勝利を追い求めて、一つひとつの競り合いに、ルーズボールの奪い合いに、そしてボールを追ってのランニングに魂を込めた。

 前半はクロアチアが優勢に進めた。「中盤鉄板トリオ」の1人、アンカーのマルセロ・ブロゾビッチがプレーできない穴を、ズラトコ・ダリッチ監督は残る2人、ルカ・モドリッチとマテオ・コバチッチを「ダブルボランチ」に並べることで埋めた。そして前線には、マルコ・リバヤを1トップに、そして「「トップ下」にアンドレイ・クラマリッチを縦に並べる4-2-3-1システムにしたのだ。

 モドリッチとコバチッチで中盤が安定し、ワントップのリバヤが非常に優れたポジションプレーを見せたことで、クロアチアは攻勢をとった。そして7分に早くも先制点。誰もがモドリッチがけるだろうと思ったFKをモドリッチはスルー、左利きのロブロ・マイエルのキックにタイミングを合わせて走り込んだイバン・ペリシッチが「こんなヘディングが可能なのか」と言いたくなるヘディングで折り返し、飛び込んだヨシュコ・グバルディオルが豪快なダイビングヘッドで突き刺した。

■モロッコの反撃

 だがモロッコは本当にすごいチームだ。キックオフから猛然と反撃に出ると、右サイドでグアルディオルの反則を誘いFKを獲得、ハキム・ジエシュのキックをクロアチアのマイエルがクリアし損ねて高く上がったとことをアシュラフ・ダリがこれまた豪快なヘディングで決め、たちまち同点としたのだ。

 クロアチアはなおも攻撃の手を休めず、42分には波状攻撃を見せて最後はリバヤが左にさばいたのを外側からはいってきた左MFのミスラブ・オルシッチが右足でまくキックでモロッコ・ゴールの右ポスト内側に当てて決め、勝ち越しに成功した。

 そして後半はモロッコの猛反撃である。交代選手を次々と送り込んで攻勢をとり、ジエシュを中心にクロアチア陣で試合を進めた。この試合のボール支配率は前半はクロアチアが55%、モロッコが36%(イーブンの状態が9%)。しかし後半には35%対52%(イーブン13%)と逆転した。しかしクロアチアの守備は固く、モロッコはアディショナルタイムにヤヒア・アティアトアラのクロスをポルトガル戦で決勝点を決めたユセフ・ネシリが得意の頭で合わせたが、わずかにゴール上に外れた。

■両チームの精神的強さ

 結果は2-1でクロアチアが勝ち、1998年以来2回目の3位となった。一進一退の攻め合いは本当に見応えがあった。戦術的には、モドリッチとコバチッチで中盤をつくるクロアチアが優位にあるように見えたが、ボールを奪ってから相手ゴールに迫っていくモロッコの迫力は多少のポジション的不利などものともしなかった。

 しかし私がこの試合で最も強く感じたのは、祖国の人びとのためにとにかく勝ちたいという両チームの強い気持ちだった。26人もの選手がいれば、出場できない悔しさ、先発できない落胆などあるはずだが、そんなことはうっちゃって、とにかく勝つために90分間戦い抜いた。そのたくましさ、精神的な強さは、両チームのこの大会の7試合を通じて共通するものだった。

 クロアチアは人口410万人という小さな国である。モロッコはその10倍近くの3700万人の国民をもつが、どちらの国も世界の大国と比較すると経済は弱く、多くの国民が祖国を離れ、外国で仕事をしている。そうした同胞への思い、そして何よりも祖国で声援を送ってくれている人びとに喜びを届けたいという思いが、両チームからこれほど強く感じられた3位決定戦は、これまでにあまりなかったのではないか。

 ボールを奪う技術、ボールを奪ってから相手のプレスをかわし、攻撃に展開していくプレーの精度などで、日本はまだまだこの2チームのレベルには達していないと私は思う。後藤さんは「差ではなく違いではないか」と言うが、私はやはり「差」が正しいのではないかと感じる。

■日本が学ぶべき「違い」

 だがそんなことよりも、何のために戦うのかという根本的なことが、日本とこの3位決定戦を戦った2か国で大きく違うのではないか(これは「違い」である)。森保一監督は「日本で応援してくれている人びとに喜びを届けたい」と口を開くたびに語ったが、日本の選手たちが心からそう思っていたのか、私は自信をもってそうだと言うことができない。

 「祖国」とか「同胞」といった抽象的な概念でなくても、両親や家族といった具体的な対象でもいい。日本の選手たちは、自分自身のためでなく、そうした他者のために自分の足が折れてもいいと思うような戦いをしただろうか。

 ポルトガルを下してアフリカ勢として初めて準決勝進出を決めた後、モロッコのソフィアン・ブファルが応援にきていた母親をピッチに呼び、肩を抱いて歓喜に沸くスタンドを見せながら歩いていた光景は、世界中の人びとの心を打った。

 クロアチアもモロッコも、百パーセント「他者」のために戦い抜いた。だから疲労困憊の状態なのに限界を超えて走り、戦い、最後まで勝利を追い求めた。試合が感動的だったのは当然だった。

 日本のサッカー選手は、まず何よりもこの面の「違い」を埋めなければならない。百パーセント他者のために戦う姿勢を、子どものときから植えつけなければならない。ワールドカップで勝つには、リオネル・メッシやキリアン・ムバッペのようなひとりで勝負を決められる選手を生み出すか、クロアチアやモロッコのように百パーセント他者のために戦うチームをつくるか、どちらかしかない。

 天才は天から舞い降りてくるもので、計算で生まれるものではない。とすれば、やるべきことはひとつではないか。