しかし1995年9月の米兵少女暴行事件が、村山氏の気力と体力を根こそぎ奪うことになる。社会党にとって、平和運動の“聖地”である沖縄で起きた事件だった。地元の怒りはすさまじく、後の普天間飛行場の返還運動につながった。

 沖縄の基地問題をめぐっては、民間の土地が多く含まれており、その使用について政府と沖縄の対立が続いていた。社会党は沖縄復帰後から「基地反対」の立場を取り、政府による“なし崩し”的な土地使用を、沖縄への差別であり憲法違反だと批判してきた。

 沖縄県の大田昌秀知事(当時)は9月、民有地を米軍用地として地主の同意なしに強制使用する手続きの代理署名を拒否すると表明。すると、村山総理は沖縄県を提訴した。総理ではなく、社会党の委員長の立場であっなら、間違ってでもそんな対応をするはずがなかった。10月に入り、村山総理は「沖縄のことで疲れとる。日米安保条約の重要性は分かっている。しかし、沖縄県民の声もあり、社会党との板挟みで困っている。この問題はわしの手で決着させたい」と、周囲にこぼしたそうだ。一方で沖縄の怒りはすさまじく、10月の県民総決起大会では、米軍普天間飛行場のある宜野湾市に8万5000人が集まった。

 村山総理は12月になり、予算編成を終えると、財務大臣の武村正義氏に「俺はもう辞める。限界じゃ」と伝えたという。そして「与えられた歴史的な役割と任務を自分なりに自覚し、その自覚に立った仕事は自分なりに力の限りを尽くしてやってきた」と振り返りつつ退した。

自民党と連立を組んだ政党は吸収されるか滅ぼされるか
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