その後、1996年1月に橋本内閣が発足する。自民党は、ライバル政党の党首を担いで連立与党入りし、再び総理大臣のイスを取り戻した。自民党と連立を組んだ政党は、創価学会という強固な支持母体がある公明党を除き、すべて吸収されるか、滅ぼされるか、歴史はそのどちらかの結末を教える。
かつて社会党は、土井たか子委員長によるマドンナブームを受け、1989年の参院選で45議席を獲得し、自民党を結党以来初となる参院過半数割れに追い込んだこともあった。
そこから数年での変化に、旧社会党職員は「少数与党となった自民党と連立を組むことは、党の消滅を覚悟することだ。それでもいい、これだけは成し遂げたいというものがなければ入るべきではない」と語る。社会党は「社会民主党」と名前を変え、現在の国会議員はわずか3人だ。
政権をとること、権力に飲み込まれる恐ろしさを村山氏ほど体験した政治家はいないだろう。数合わせで総理に担がれ、翻弄され、自らの信念まで剥ぎ取られた村山氏だが、ただひとつ誇りにしていたことがあるという。「総理大臣中、苦しみ続けた村山氏は、戦争責任を認めた村山談話には、ずっと誇りを持っていた」(旧社会党職員)。その誇りを胸に天国に旅立った──。
(『ABEMA的ニュースショー』より)
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