なぜ若者は「学ばない」という自己防衛をするのか?哲学者・内田樹が語る“学びを起動”する教育論

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■若者が口にする「居場所がない」の本当の意味

平石氏 人と人との繋がりについても伺います。誰もが心地よく接することとして「居場所」と言われることが多いですが、居場所はあるけれど居心地がよくないことにも語られてますね。。

内田氏 よく若い人が「居場所がない」と言いますね。関西だったらグリ下(大阪・道頓堀のグリコ看板周辺)とかに人が集まるようですが。ただ話を聞くと、居場所がないと言っても、家はあるし学校にも通っている。だから居場所はあうけれど、そこにいたくないのは、そこでキャラクターを演じることを強いられているから息が詰まっているんだと思います。思春期の子たちはどんどん変化しているので、固定したキャラを強要されると、学校でも家庭でも、成長を止められることにすごく反発があります。その苦しみが「居場所がない」という言葉になるし、他にも「閉じ込められている」「息苦しい」といった、身体的な苦痛を訴える言葉を、みんなよく使いますね。人間的な生き方として、選択肢がすごく限定され、可動域が狭い自分の状態を「居場所がない」と言っているんだと思います。

 10代から20代のころって、どんどん変化していく時なので、変化させてあげればいいんですけど、みんな逆なんですよね。変化させまい、させまいとしている。今の学校教育の場合で言えば、中学校の段階から将来何をやるか決めろとか、最短距離で最も無駄のない、費用対効果のいい勉強方法である学部に言って、免状なり資格なりを取って就職しろという。中学校ぐらいの段階で先まで全部決めて、これが効率的な生き方なんだと、すごく狭い穴に向かって一心に入り込んでいくような作業が生きることだと言われたら、子どもだって泣き出しますよ。

平石氏 家や学校に居場所はあるけれど、自分の居場所がないという人たちが、内田さんの道場ではいろいろな方がそれぞれの学びをされているということですね。

内田氏 この道場では変化することを要求しているだけで、固定的なキャラクターみたいなものになってほしくないですね。以前、すごくおとなしい文系という感じの男の子がいたんです。体も小さかったんですが、一生懸命に稽古をする子で、合気道の初段になりました。東京に一九会という100年ぐらい続く非常に厳しい行をする禊の団体があります。禊初学修行といって、三日三晩、祝詞を唱え続ける荒行をすると一九会の会員になれるイニシエーションがあるんですが「そこに行きたい」というので、大丈夫かなと思いつつ送り出しました。

 無事に戻ってきて「帰りました」と言っていたんですが、次に道場に来た時に頭を短く刈り上げて、黒帯を締めて、もう見た目の感じが体育会系に変わっていたんですよね(笑)。文系で虚弱な雰囲気の少年みたいだったところから、パッとイメージを変えたんです。彼の中のすごく荒々しい、荒ぶるようなところがバーっと出たんでしょう。本人は気持ちよかったでしょうね。これだけキャラ設定を変えたら、なんという解放感だろうと思います。たぶん、それもまた次に変わっていくわけです。こういう連続的にキャラを変えていくことは大変いいことで「らしくないことをするな」とか、「変わったな」とかいうことは言わないで、変化したことをみんなで寿(ことほ)ぐ。それが教育環境としては大事だなと思います。

平石氏 そうすると内田さんが一番うれしい瞬間も、変わる瞬間ですか。

内田氏 とにかく変化ですよね。一皮剥ける、というところ。武道では「居着き」といって、足裏が地面に張り付いて動きが取れなくなることを指すんですが、その他でも何か固まった感じ、執着して変化できないことについても「居着く」といいます。武道や修行の目的は「居着きを去って、自在を得る」ことです。彼はきっと稽古を通じて、居着きをパッと去って自在を得て、次のフェーズに移る経験をしたんだと思います。自在を得る欠片を味わったと思って、これが修行の求めるものかとわかってくれたら、とてもうれしいですね。僕はみんなが成長、変化していくのを横で手を叩きながら「頑張ってね」と応援するだけです。
ABEMA『ふたりぼっちのアベプラ』より)
 

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