
元プロ野球の広澤克実氏(56)が明かした戦時中の野球界のエピソードに、同じ年の頃の女子大学生が思わず「鳥肌が立ちました」とコメントする場面があった。
広澤氏は10月14日、東京六大学野球の秋季リーグを中継していたAbemaTVに解説として登場。その席で、大学を経て、わずか1カ月の憧れのプロ野球生活を送った後に戦地へ赴き、名誉の戦死を遂げた明治大学の先輩の話をおもむろに始めた。
「戦時中の1943年、ちょうどこの時期に、六大学の選手にも例外なく学徒出陣の命令が下りました。12月に繰り上げで大学を卒業となり、召集されて戦地に赴くまでのわずかな間、故郷の両親にも会わず、憧れのプロ野球選手としての生活を送った選手がいるんです」
その選手の名前は、田中雅治さん。当時の朝日軍で16試合に出場し、48打数10安打、打率.208という記録が残っている。予定通り12月1日に陸軍に入隊後、台湾とフィリピンの間にある“輸送船の墓場”と恐れられた「バシー海峡」で命を落としたとされている。
さらに広澤氏はもう一人の明治大学の先輩についても言及。
「嶋清一さんという方は、1939年の夏の甲子園で決勝を含む全5試合で完封勝利。さらに準決勝、決勝ではノーヒットノーランの偉業も達成されました」
田中さん同様、嶋さんも戦地で命を落とされたことに触れると、「戦争さえなければ、素晴らしいプロ野球選手が、六大学から多数生まれていた」と悔しそうにエピソードを披露した広澤氏に対して、スペシャル応援団として放送に参加していた現役の女子大生は「鳥肌が立ちました」と感想を述べていた。
(C)AbemaTV

