体力、知力、その全てを振り絞って戦った1カ月だったと言ってもいいだろう。新型コロナウイルス感染拡大の影響を受けて、将棋界は4、5月と約2カ月に渡り、公式戦が延期・中止になった。そのかわりに特に6月は一気に対局が詰まり、上位まで勝ち上がっていた棋士は、超過密日程で戦いを続けることになった。その一人が永瀬拓矢二冠(27)だ。藤井聡太二冠(18)と棋聖、王位の挑戦者決定戦で戦い、叡王戦では豊島将之竜王(30)を迎え撃つ防衛戦を繰り広げた。「6月は結構、過密日程でしたからね。研究の時間?短いという言葉よりさらに短い。かなり厳しかったと思います」と、苦笑いをしながら振り返った。研究熱心で知られる永瀬二冠にして「厳しい」という言葉が何度も繰り返されたその期間は、トップ棋士を文字通り「鬼」へと進化させた。
6月の対局数、実に9局。早指し戦は1つもなく、全てが長時間の対局。タイトルに関わる重要局が、息をつく暇もなく繰り返されたのだから、気力・体力の充実期、27歳の永瀬二冠にとっても、相当に堪える期間だったはずだ。「6月は結構過密日程だったので、それを経験していると、だいぶ楽になってきているのかなと思います」。対局において、事前の研究は必須。自分の知らない研究手で、一気にペースをつかまれたとなれば、トップ棋士同士の対決になるほど、挽回の余地がない。この6月においては、永瀬二冠といえども新たな研究を進める暇がなく、これまでのストックで戦い続けている状況でもあった。「疲労も溜まってきますからね。厳しい経験をさせていただいた」と、思い出しただけでも疲労感が押し寄せてくる。
それから1カ月、2カ月が経過。少しずつペースが落ち着いてきた今となっては「(時間は)あるなという感じはしますね。あれ以上、厳しい経験はないかなと。人生の中で経験できたのはよかったかなと思います」と、あの激流の経験が通常時に余裕を感じさせることにつながっている。実際、7月・8月で計11局指し、成績は10勝1敗。まさの鬼のように強い。
ちょうど対局が忙しくなり始めたころ、扇子や色紙に書く揮毫に「鬼」の一文字を採用した。「亀っていう時も好きなんですが、また体得していないんですよね」。字体は草書。練習の成果もあってか、達筆だ。「対局前後は、将棋と使っている脳が全然違うので、字を間違えやすいんですよ。自分の字すら結構浮かばないので(苦笑)使っている脳が違う感覚があるんです」と微笑んだ。対局に向かうにつれて鬼になり、時間が経過すればにっこりと笑う。そんな二面性もまた、永瀬二冠の魅力でもある。満面の笑みを見せ、堂々と「鬼」の一文字を書き記すのは、タイトル初防衛を果たした瞬間だろうか。
(ABEMA/将棋チャンネルより)