ついに幕を開けたカタール・ワールドカップ。森保一監督が率いる日本代表は、いかなる戦いを見せるか。11月23日、初戦の相手はドイツ。ベスト8以上を目ざすサムライブルー、26の肖像。今回はDF長友佑都(FC東京)だ。

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 出れば出るほど、W杯の魔力に取り憑かれる――4度目の大舞台を迎える長友佑都は、日本代表でチャレンジを続ける理由を聞かれた時に、そう答えた。

 明治大では2年生まで、スタンドで太鼓を叩いていた。その当時、インターネットの書き込みに「やたらリズミカルな太鼓を叩く控え部員がいる」と話題になっていた。まさか、その人物が後に日本代表で4度もW杯の舞台に立つサイドバックだというのは、現場でその音を聞いていた大学サッカーファンも、知るよしもなかっただろう。

 もともと実力がなかった訳ではない。東福岡高ではボランチや攻撃的なMFも担っていたが、ヘルニアを患っていたのだ。大学で神川明彦監督に右サイドバックの適性を見出されたことが、長友の転機となったことは間違いない。

 それに加えて、この時期の苦労はストイックな姿勢を育むことになった。今でこそ“体幹塾長”の異名を取るが、強靭な肉体は怪我に向き合った時期が大きく影響しているはずだ。
 
 W杯の合宿前に、日本代表をサポートする西芳照シェフの囲み取材があったが、その際に食事の栄養などについて、最も熱心に聞いてくるのが長友だと明かしてくれた。

 困難を克服し、大学で一気に花開いた長友は、2007年3月に行なわれたFC東京との練習試合で、当時の原博実監督などの目を引く。まずは特別指定選手として練習参加し、実力が認められると、卒業を待たずしてプロ入りを決断した。

 長友の名前を一躍広めたのが、初めてA代表に招集された2008年5月のコートジボワール戦だった。北京五輪の候補でもあった長友は、世界的なサイドアタッカーとして知られたエマヌエル・エブエを徹底マークで完封して見せたのだ。

 その当時、まだ左右のサイドバックをあまり偏りなく担っていたが、次第に右利きの左サイドバックとして定着していく。1対1の守備能力に加えて、縦の推進力、元日本代表監督のジーコをして「長友は180分でも走り続ける」と言わしめた運動量で、絶対的な左サイドバックとして地位を確立した。

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 自身初のW杯となった2010年の南アフリカ大会で、ベスト16進出に貢献した長友はその活躍が認められて、セリエAに昇格したばかりのチェゼーナに移籍。そこで後にJリーグで指揮するマッシモ・フィッカデンティ監督と出会い、カルチョの舞台でもブレイクすると、世界的なビッグクラブであるインテルへのステップアップを果たす。

 同クラブでは在籍7シーズンで、リーグ戦だけで157試合に出場するなど、一時代を築いた。日本代表では内田篤人との左右サイドバックが定番となった。

 しかし、大いなる野心を持って挑んだ14年のブラジルW杯で惨敗。長友も後に「自信が過信に変わっていた部分がある」と振り返る。そこから膝や筋肉系の怪我を経験し、インテルでも出番が減るなかで、ガラタサライに環境を変えてコンディションを高め、18年のロシア大会で3度目のW杯を経験する。

 本番が目前に迫ったところで“ハリル解任”から西野朗監督が就任すると、新体制初陣のガーナ戦で惨敗を逸した。外目にも消沈した雰囲気が漂うなかで始まったオーストリア合宿で、「スーパーサイヤ人」のように金髪で登場した長友は、誰よりも大きな声を発してチームを盛り上げた。

 本大会では個人としてのパフォーマンスもさることながら、長友の精神的な支えなしに、ベスト16という結果は語れない。ここまでの働きだけでも、日本サッカーの功労者であることは間違いないだろう。
 
 しかし、長友という選手は現役生活が続く限り、チャレンジャーであり続ける。フランスの名門マルセイユを経て、FC東京に戻ってきた長友は「相手が強いほど、自分は能力が引き出されるタイプ」と語った。

 その言葉通り、最終予選のサウジアラビア戦では対面するアル・ムワラドを完封して2-0の勝利を支えた。6月のブラジル戦では久しぶりに右サイドバックを担うと、ヴィニシウス・ジュニオールにサイドでは全く仕事をさせなかった。

 9月のエクアドル戦後に「心の中はスーパーサイヤ人です」と語った長友は本大会に向けて、再び金髪にしてカタールの地に立ち、ドイツ戦直前には真っ赤に染め上げた。

 W杯の魔力に取り憑かれた男の4度目の挑戦が幕を開ける。

文●河治良幸