現在ダライ・ラマ14世がいる場所は、中国のチベット自治区ではなく、インド北部の街「ダラムサラ」だ。ここに「中央チベット行政府」、通称「チベット亡命政府」を発足させ、活動を続けている。
そもそもチベット全域は、17世紀にダライ・ラマを元首とした、チベット政府の統治下にあった。しかし第2次世界大戦後、毛沢東を中心とした人民解放軍が、中国を一気に共産党化したことで、情勢が変わった。
平野教授は「中国という近代国家は、影響下にあるチベットに対して、『これからは仏教をやめて“中国化”あるいは“近代化”せよ』という態度に出た」と話す。1951年には、チベットも全域が、中国の支配下に置かれた。
統治戦略については「近現代の中国は、清朝が影響下に置いていた地域を、基本的には受け継いで支配する方針を強く持っている。中国の影響から逃れようとするダライ・ラマやチベット人に対しては、祖国の統一を妨げる『分裂主義者』と呼んでいる」のだそうだ。
共産党支配にも調和で対応していたダライ・ラマだったが、内戦の火種は大きくなるばかりだった。「1959年3月にチベットと中国共産党の対立が極限に達した中で、ダライ・ラマ14世をはじめとする多くの人々がインドに逃れた」。
その後、ダライ・ラマ14世は、武力ではなく非暴力による政治的解決を主張し、1989年にはノーベル平和賞が授与された。しかし中国政府は、チベットは中国の領土であり、ダライ・ラマのノーベル平和賞受賞は内政干渉だと批判した。中国では「ダライ・ラマ」の名はタブーで、ネット検索も規制されているという。
パンチェン・ラマの存在
