■核廃絶へ、闘い続けた被爆者たち
涙ながらに核廃絶を訴える山口仙二さん
広島と長崎で、21万人以上の市民を殺害した原爆。現代の核兵器は、数百万人を一瞬で殺し、文明そのものを崩壊させる破壊力を持っている。戦後、被爆者たちは占領軍に沈黙を強いられ、日本政府からも見放されていたが、1954年のビキニ事件を機に立ち上がり、核兵器廃絶を訴え続けてきた。
「人にこんな苦しみを与えてはならないということ。誰だってこの原爆の苦しみだけは味わってほしくない」(被爆者・故 片岡津代さん)
「被爆者がもし一人もいなくなった時に、その時にどんな形になっていくのか、それが一番怖い」(被爆者・故 谷口稜曄さん)
「日本被団協」の構成団体、「長崎被災協(長崎原爆被災者協議会)」の地下倉庫で、かつて会長を務め、被団協の代表委員だった故・山口仙二さんが、1982年に被爆者として初めて国連で演説した時に読んだとみられる、直筆の原稿が見つかった。その演説は、核兵器の“非人道性”を世界に伝える先駆けとなった。
「私は1945年8月9日、長崎の爆心地から1.4㎞の地点で被爆をし、上半身に重いやけどを負い、ご覧のような傷だらけの体になりました。私の周りには、目の玉が飛び出したり、木切れやガラスが突き刺さった人、首が半分切れた赤ん坊を抱きしめ、泣き狂っている若いお母さん、右にも左にも石ころのように死体が転がっていました。私の顔や手をよく見てください。よく見てください。世界の人々、そしてこれから生まれてくる人々、子どもたちに、核兵器による死と苦しみを、たとえ一人たりとも許してはならないのであります。私たち被爆者は訴えます。命のある限り私は訴え続けます。ノー・モア・ヒロシマ、ノー・モア・ナガサキ、ノー・モア・ウォー、ノー・モア・ヒバクシャ」(被爆者・故 山口仙二さん)
山口仙二さん(77歳・取材当時)の元へ
