長生炭鉱は、「募集」によって朝鮮半島から1258人の労働者を集めていた。韓国南部の都市、大邱(テグ)。長生炭鉱で働いた朝鮮半島出身者の多くは、現在の韓国南部の人たちだった。韓国遺族会の会長、ヤン・ヒョンさん(77)は、多くの遺族から話を聞いてきた。
「当時は飢饉で、本当に食べていくのが大変で。そういう人達を募集人が狙う。『日本に行けばたくさん食べられて、たくさん稼げる』と。私の叔父も話を聞いていると、やっぱりそうだったんだなと思う」(ヤンさん)
遺族のウ・チョルホさん(64)は、叔父が長生炭鉱に行った経緯を父親から聞いたという。
「面(自治体)が『この人、この人』と選んで、連れて行った。『日本に行けば良い食事ができて、お金ももらえる』そういう嘘にだまされて行った。私の国が貧しかったから、叔父も連れて行かれた。言葉では言い表せないほどの怒りというか、とても悔しい。現場に行ってみて、叔父がこういう場所で働いていたんだ、こんなに苦労していたんだと分かって。遺骨がもし見つかれば、故郷の地に連れて帰って埋葬してあげたい。それが私の心からの願いだ」(チョルホさん)
朝鮮半島から来た人への訓示の記録が残されている。「只今、日本は戦争を致しております。その資材を造るには、第1に石炭が必要です。その石炭を掘る皆様の一人一人が戦争をしている心持ちで一生懸命に作業に努めなくてはなりません」。
さらに、石炭と戦争の関係を物語るものが残されていた。戦時中、国が作成したポスターは、石炭が戦争を支えていたことを示している。
宇部市史には、当時は「募集という名目の強制連行」が行われていた、とした上で長生炭鉱への強制連行があったと記載されている。
「刻む会」の勉強会では最後に、「ある朝鮮半島出身者」の手紙を紹介している。
「お母さん、私は今、日本の山口県というところで、炭坑の仕事をしています。海の下に坑道が通っていて海の上を通る漁船のトントンという音も聞こえてくるほどのとても危険な場所だ。体の具合が悪いからと言ってその日の仕事を拒否でもすると動物以下の扱いを受け、暴力を振るわれ食事もろくにもらえず、空腹で過ごす日々が多くある。必ず脱出して、必ずお母さんのところに帰ってきます」
手紙の主は今も海底に眠っている。
国が動かぬ中、「刻む会」が独自調査へ
