戦後80年の夏、10年ぶりに開かれた祖父と孫の2人展。生前、川田さんが描いたのは、シベリアでの生活。暗い炭鉱作業などの過酷な労働に少ない食料、そしてマイナス30℃を下回る厳しい寒さだ。

「帰りたい、食べたい、寝たいということはおそらく日に日に思っていた」(生前の川田さん)

 中国東北部・旧満州で農業技師として働いていた川田さんは、1945年2月に陸軍に召集され、20歳で終戦を迎え捕虜となった。ソ連は国力回復のための労働力として、終戦時、満州などにいた元日本兵や民間人およそ57万5000人を各地の収容所に連行。川田さんは現在のカザフスタンにあった収容所に送られた。

 飢えと寒さ、重労働の「三重苦」でおよそ5万5000人が亡くなったとされるシベリア抑留。1日2回の食事はマッチ箱ほどの大きさの黒パンに、具がほとんどないスープだった。

 川田さんの北海道出身の戦友は「故郷の小豆が食べたい」と願いながら、亡くなった。川田さんは「コーリャンという家畜の飼料になる穀物を炊いたら小豆色が出る。それを飯ごうで炊いて口に食べさせると『あぁうまかった』と言うのと一緒に亡くなっていった」と当時の様子を回想した。

祖父から孫へ引き継がれる「バトン」
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