■祖父から孫へ引き継がれる「バトン」

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川田一一さん、千田豊実さん(当時15歳)

 「生きて帰ってこい」という母親の言葉を、夢で何度も見たという川田さん。1948年12月、ナホトカ港から引揚船に乗り、京都の舞鶴港に到着した。

 川田さんを初めて取材したのは2011年。炭鉱労働の影響で肺を患い、酸素吸入器をつけてキャンバスに向かっていた。

 引き揚げ後、故郷で農業を営み、3人の娘を育てた川田さんが絵を描き始めたのは70歳になってからだ。中学2年だった孫の千田豊実さんが油絵を習い始める際、一緒に画材を買った。祖父が暗い絵を描き始めたことに千田さんは衝撃を受けた。

「『どうしてこういう絵を描くの?』と質問したら、『実は自分は抑留者としてシベリアで4年間過ごしていて』ということを初めて聞いて』」(千田さん・当時29歳)

 美術大学を卒業後、画家として東京やドイツ・ベルリンを拠点に活動していた千田さんは、2009年に故郷に戻り、祖父とキャンバスを並べた。

 生前の川田さんと千田さんは2人でアイデアを出しながら絵を描くこともあった。「これは船乗る人。兵隊さん。ここで点呼受けて、検査受けて、『よし、お前は帰れ』と言われた人が船に飛び乗る」(川田さん)「兵隊さんが並んで船に乗っているところは描いてもええと思うよ」(千田さん)

 川田さんの作品「乗れない蛍」。舞鶴に向かう引き揚げ船に乗り込もうとする兵士や民間人の姿。そしてシベリアで亡くなり、故郷に帰ることがかなわなかった抑留者の魂を「蛍」で表現した。

 千田さんは、様々な色や点で時間や感情を表現するなど抽象絵画が専門だが、川田さんに勧められ「シベリア抑留」をテーマにした作品も描き始めた。月明かりの下、収容所に向けて雪原を歩かされる捕虜たちを描いた川田さんの作品「異国の丘―月照」。千田さんはこれをモチーフに、連作絵画(「生き続ける鼓動」「生き続けた鼓動」)を手掛けた。散りばめられた無数の白い点は雪でもあり、時間の象徴でもあり、祖父が抱え続ける辛さを「蒸発」させたいという願いを込めた。

「背負ってきた過去が少しでも取り除かれて楽になるんじゃないかなっていう願いも私はあって」(千田さん)

 千田さんと川田さんは2009年から、地元・さぬき市や京都の舞鶴引揚記念館で2人展を開いてきた。

2012年10月、川田さんは間質性肺炎のため87歳で死去
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