■80年を経て辿る父の足跡

生前の冨五郎さん一家の写真
拡大する

生前の冨五郎さん一家の写真

 宮城県亘理町に住む佐藤勉さん(84)。東京でバスの運転手をしていた父・冨五郎さんは、37歳の時に召集令状が届き、マーシャル諸島に出征。そして、2年後に亡くなった。

「戦死って言葉だけですね。母から教えられたのは。あとは何にも思い出がないですね」(勉さん)

 冨五郎さんを含む8割の戦没者の遺骨は、今もマーシャル諸島に眠ったままだ。勉さんは、これまで5回現地を訪れたが、胸の奥の思いは消えない。今年84歳、体力的にこれが最後の慰霊の旅だという。

「心が躍っている。(天気は)曇りですけれど、心はすごく晴れている。うれしいです。父の面影がないから想像だけだからね。何とかして幽霊として現れて、初めて父の顔が分かる。何とかして現れてほしい、幽霊として」(勉さん)

 14時間ほどかけて飛行機を乗り継ぎ、4つの島を経由する。日本からおよそ4500キロ離れた南太平洋に浮かぶマーシャル諸島の環礁の1つがウオッゼ島だ。サンゴ礁と砂でできた小さな島には、およそ1000人が暮らしている。農業に適さない土壌のため、ヤシの実を加工して生計を立てている。日本の委任統治領だった島には、「アミモノ(編み物)」などの名残がある。

 穏やかな暮らしのそばに眠る戦争の爪痕。太平洋戦争中は十字架状の滑走路が整備され、日本兵およそ3500人が駐留した。滑走路近くに残る航空隊の指揮所は、現在島民の住宅として使われている。

 航空隊の指揮所を訪れた勉さんは「こんな撃たれたら大変だ。これ全部(銃で撃たれた跡)、よく持ちこたえたこと」と語る。

 ウオッゼ島で最高齢のチレさん(83)に会う。付き添っているチレさんの娘は、母から戦時中の話を聞いたという。「『父や母に抱かれて逃げたんだよ』と。島に落ちてくる爆弾から逃げるために」と。

日記が語る「餓死」の実態
この記事の写真をみる(7枚)