■日記が語る「餓死」の実態
「生キテイルノハ不思議ナクライダ。飯ワン中 草ヤ木ノ葉ダケアルノミ」冨五郎さんの日記より
冨五郎さんが島に到着したのは、1943年8月。日記にはこう綴られていた。
「マアシャル ウォッチェニ着イタ」
「皆んな元気ですか。お父さんもほんとうに元気で遠イ戦地で御奉公して居ります」
「バナナヤ ヤシノキ ヤシノミ等ノ多いこと。珍しいものばかりです」
到着から間もなく、冨五郎さんに戦火が迫る。
「敵機来タル数機」
「コレヨリ戦時ダ」
1944年2月。マーシャル諸島の重要拠点・クェゼリン島が陥落。冨五郎さんがいたウオッゼ島は孤立し、補給が寸断される。
「食糧輸送セン水艦入港の予定も入港シアタワズ」
「罐(缶)詰状態ニサレ減食ニ減食」
「減食の為め全く腹が空いテタマラナイ。勝チ抜ク為ニワドンナ我慢モ致シマショウ」
5割減食。さらに7割減食。日に日に食事は減らされ、動物を食べる記述もあった。終戦まで補給は一度もなく、冨五郎さんは栄養失調に陥る。
「朝食トカゲを食う」
「今日ノオジヤ(ネズミが入ッタ)。味ノ良イ事日本一」
「栄養ブソクカ足ガムクンデ驚イタ。悲惨ダ」
「苦シイガ尊ブ可キ任務ガアル。自分ヲムチ打ッテ頑張ッテ居ル」
「生キテイルノハ不思議ナクライダ。飯ワン中 草ヤ木ノ葉ダケアルノミ。米ガ見ヘナイ」
「本島三千五百人ハ既ニ二千七百名滅ス」
「後ハ無クナリ ガシスルノデ急ニ農園作業開始」
「不平不満有ルモノ銃殺 見込ナキ病人モ自ケツ ヌス人モ銃殺」
脱走者や食糧泥棒。兵士たちは、極限状態に追い詰められた。終戦直後、アメリカ軍がウオッゼ島で撮影した写真には、やせ細った日本兵の姿が記録されている。マーシャル諸島では、餓死を含めおよそ2万人の兵士が亡くなった。
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