■長きにわたる冤罪と拷問のような取り調べの歴史

【写真・画像】「トイレさえも行かせず、水をも飲ませず、耳や髪を掴んでは小突き回した」袴田巖さんを襲った“拷問”…後遺症は今も 取り調べには“拷問王”と呼ばれた刑事の部下も関与 3枚目
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捜査員による脅迫のような取り調べ

 戦後まもなく、「幸浦」「二俣」「小島」という3つの殺人事件が起きた。被告は皆、死刑か無期懲役の判決を受けたが、後に取り調べ中の拷問が発覚し、トイレに行かせないこともあった。いずれも逆転無罪となり、静岡は「冤罪のデパート」と揶揄された。

 3つの事件とも、ある捜査員が指揮を執っていた。支援者の鈴木昂氏は「二俣、幸浦、小島事件では名を馳せて、非常に有名になっちゃった」と語る。袴田弁護団の田中薫弁護士はその人物を「紅林麻雄」だと明かした。3つの事件で捜査主任を務めた紅林氏は、「転落した名刑事」と言われた。冤罪発覚後、週刊誌の取材に「みんなから拷問王なんて言われちゃって。わたくしの捜査方式が古いと言うけれども、ずいぶんたくさんの強殺事件を、それで片づけているもんね。当時は『よく克明な捜査をやってくれた』と裁判官から、ほめられたもんですよ」と答えている。

 1954年、後に冤罪と分かる「島田事件」が発生。静岡県島田市で、6歳の女の子を殺したとして、赤堀政夫さんの死刑が確定。再審で無罪になるまで、拘束期間は35年に及んだ。赤堀さんの支援者を務める鈴木氏は「取り調べにタッチしているということは、何度も赤堀さんの訴えの中に名前が出てくるんです。紅林と羽切が。本当に痛めつけられたと。羽切は紅林の部下であることは間違いない」と語る。

 捜査主任を務めたのは紅林氏の部下だった羽切平一氏だ。赤堀さんは生前、取り調べの様子について「ご飯も食べさせない。トイレにも行かせない。これじゃどうしようもない。『俺たちの言うこと聞かなければ痛い目に遭わすぞ』って。拷問の痛さと苦しさのために音を上げてしまう。やっていないものを『やりました』って言ってしまう」と話している。紅林氏の捜査手法が、受け継がれていたのだ。

 そして1966年、袴田事件が起きた。当時の静岡県清水市で一家4人が殺害され、巖さんは強盗殺人などの疑いで逮捕される。島田事件と袴田事件は、取り調べの手法がよく似ている。

「調べ中に必ず僕と同じようにひどい拷問を受けていると思いますよ。巖さんはね。やっていないものを『やりました』と無理矢理言わせるんだから」(赤堀さん)

 島田事件でも弁護活動をした田中弁護士は「紅林麻雄が島田事件にも関係していた。その部下でいた羽切平一が袴田さんの自白、取り調べにも1回だけ関与しているのはありますね」と指摘する。

 巖さんは逮捕された後、否認を続けていた。取調官がそれまでの4人から6人に増員された。その時に加わったのが、紅林氏の部下だった羽切氏だ。田中弁護士は「県警を挙げて引っ張ってきたけれども自白が取れない。どうするかということを捜査会議で開いている時に、じゃあ誰を応援にという中で選ばれたんじゃないの」と推測する。

 取り調べテープに、羽切氏とみられる人物の声が残っている。「チャンピオンを目指す人間が娑婆に未練があんのか。お前は。娑婆に未練持つってことはもうあきらめなさい、ね。はっきり言っといてやる、ね。もう脅かす、はっきり言ってね」(羽切氏とみられるテープの声)

 田中弁護士は「羽切が袴田さんに対して『娑婆に未練を持つな』と。紅林との関係がどこかであったかと私は感じた」と述べる。テープには「死刑になったってしょうがないじゃないか。お前は。そういうお前みたいなものは、ね。被害者に対して『申し訳なかった』と一言も言えないような人間は、犯人は、ね、そりゃもう情状酌量の余地はないよ」という声も残されている。

 この取り調べがあった翌朝、巖さんは自白した。「取調べは人民の尊厳を脅かすものであった。殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ、といっておどし罵声をあびせ棍棒で殴った。連日二人一組になり交替で蹴ったり殴った。それが取調べであった」(拘置所からの手紙 1983年2月8日)

 当時の捜査員が取り調べの実態を語る。「言葉でガンガン責めたりなんかはあったと思う。そういう時代だよ(昭和)40年代というのは。だって、おとなしく聞いていてしゃべってくれるなら誰も言わないし。そこは人間と人間、取調官と被疑者との間の闘いだもん」(元捜査員)

 捜査記録には「うっかりコップに水を一杯やったところ平常に戻ってしまった」という記述もある。そして、取り調べテープには以下のやり取りも録音されていた。

「袴田や、間違いないな、な。いいじゃないか、なぜ迷うの」(捜査員)
「小便に行きたいですけどね」(巖さん)
「小便は行きゃええがさ。やるからな小便行くから、な。その間にイエスかノーか話してみなさいって言うじゃないか」(捜査員)
「警部さん、トイレ行ってきますから」(巖さん)
「便器もらってきて。ここでやらせばいいから」(捜査員)

 この後、その場で用を足す音が録音されていた。「取調べ中はトイレさえも行かせず、水をも飲ませず、弱り切った私を小突き回しては調書に指印させようと虐待を続け、更には、耳や髪を掴んでは、小突き回したのであります」(上告趣意書 1976年7月22日)

 田中弁護士は「島田事件でも、赤堀さんは16時間とかトイレに行かせてもらえなくて、それで失禁しているって言ったでしょ。(袴田事件でも)同じ。生理的欲求に対しても応じなくて、(島田事件では)そこで座ったまま失禁させる、あるいは(袴田事件では)便器を持ち込んでさせるってことは、本当に人間の尊厳をなくさせることでしょう」と両事件の共通点を指摘する。

 袴田事件が起きたとき、紅林氏はすでに亡くなっており、羽切氏が捜査を指揮したわけでもない。それでも、脅迫、拷問、トイレに行かせないといった歴史は繰り返された。

死刑囚としての恐怖、心身むしばむ「拘禁症」
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