■死刑囚としての恐怖、心身むしばむ「拘禁症」
表情をほとんど変えない巖さん(左)、姉のひで子さん(右)
自白した巖さんは起訴され、死刑が確定。再審開始決定を受けて釈放されるまで、拘束期間は48年に及ぶ。そこには、死刑囚にしか分からない現実があった。
無罪になった2カ月後、ひで子さんは巖さんを東京に連れていった。そこはボクシングの聖地「後楽園ホール」。元プロボクサーの巖さんに特別席が用意されたが、観戦する直前、巖さんは「帰る」と言い出す。
「きょうのボクシングはね、うそなんだ全部。全部うそのことなんだね」(巖さん)
「ほんの5分前ぐらいまでは、リングに上がるつもりでいたんですがね。急に変なこと言い出しまして、これも拘禁症の後遺症だと思います。48年の拘置所生活というものが今の巖に出ているんです。死刑囚じゃなくなったとしても後遺症というものは残っております」(ひで子さん)
拘禁症とは何なのか。元死刑囚の赤堀さんは生前、こんな話をしていた。「みんな朝ね、8時半すぎると息を殺したようにじーっと待つんですよ。みんな怖がっているんですよ。いつ殺されるかってね。(看守の)足音が聞こえると、どの部屋に止まるかっていうのが不安なんですよ。自分の部屋だと当然もう終わりだもんね」。
死刑囚に執行が告げられるのは当日の朝で、看守の足が自分の部屋の前で止まると、その合図となる。ある朝、赤堀さんは看守に連れ出されたが、執行される別の死刑囚と間違えられたようだ。
「それまで皆さんと同じように髪が真っ黒だったんですよ。真っ黒の髪をしていたのにね、ドアを開けられた時にね、恐怖心のためにね、浦島太郎みたいにね、髪の毛があっという間に真っ白になった」(赤堀さん)
支援者の鈴木氏は「島田(事件の赤堀さん)も殺されるとこだったんだよね。袴田さんが死刑(囚)であるというのは、死刑囚という部屋の中に閉じ込められただけのことじゃなくて、明日殺されるかもしれないという、そういうことが連続した結果で、ああいう袴田さんの状況がある」と述べた。
「私はこの死刑囚という特殊な境遇にデッチ上げによりおかれ、初めて死刑の残虐のなんたるかを熟知した。確定囚は口をそろえて言う、死刑はとても怖いと。だが、実は死刑そのものが怖いのではなく、怖いと恐怖する心がたまらなく恐ろしいのだ」(拘置所からの手紙 1980年5月13日)
巖さんは、長きにわたり死刑執行の恐怖に脅え続けた爪痕なのか、表情をほとんど変えない。
再審規定の不備と捜査適正化への教訓
