■背中に刺さった爆弾の破片、ちぎれた足…癒えない“心身の傷”

左足を切断した安野輝子さん(86)
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 2025年6月、静岡県浜松市で戦災慰霊祭が開かれた。浜松大空襲で九死に一生を得た木津正男さん(98)は、慰霊祭の後、当時被害にあった場所に案内してくれた。18歳だった木津さんは、軍の仕事を請け負う技師だったため出征を免れた。住民の避難を誘導し、家に帰って来た時だった。

「電話のところに鉄兜(てつかぶと)と書類のカバンが置いてあって。そこへ手を伸ばした時、ナパーム弾(焼夷弾)がうしろ落っこって飛ばされて。それで気絶しちゃったわけ。手が薪のように燃えていて、性(気)が付いたの」(木津さん、以下同)

 他の家族は無事だったが、木津さんの姿は一変していた。「父と母と姉が俺の名前を呼んだけど、真っ黒い人間が3人か4人並んでいると分からないんだ、俺が。真っ黒い人間で。それで親が『正男、正男』って呼ぶもんで。声が出ないの。『うーうー』って言っていて、それで分かった。親が自分の子を分からんのですよ。真っ黒焦げで」。

 その後、5カ月もの間、木津さんは生死をさまよった。「うちの子どもは、もう60歳過ぎているけど、私の体は見たことない。見せないね。かわいそうで。だからお風呂も一緒に入ったことがない。肩甲骨の下にまだ弾が入っている」。背中に刺さった爆弾の破片は、手術でも取り出せなかった。

 その痛みを抱えながら、補償を求めて議員事務所を回った。「名刺持って『先生へ』ってやったら『先生は今お留守です』って。『事務長おりますか』って言ったら『おりません』って。いても『いない』って言う。大臣の事務所へ行くと会って話せるっていうのはね、20件回って1件あるかそこら。全部断られた」。

 戦後、国は旧軍人や遺族に、総額60兆円に上る補償をしている。一方で、民間人には補償はなく、広島・長崎の被爆者などに給付金を出しているだけで、空襲被害者には何もしていない。

 安野輝子さん(86)は鹿児島県川内市で空襲に遭い、左足を切断した。当時6歳だった。「弟2人といとこと遊んでいて。空襲警報がすごいなり響きますよ。『ウウー』っていう。急いで部屋へ入って、部屋の真ん中にある防空壕にたどり着くまでに、光とも音とも分からないようなんで、気を失くしたみたい。その時にもう足はちぎれていた。ちぎれて横にあったみたい」(安野さん、以下同)

 病院では治療らしい治療も受けられなかったという。「トカゲの尻尾が切れても生えてくるように、私の足も生えてくると思っていたから平気やった。だけどいつまで経っても生えてこないし。竹の松葉杖に滑ったり転んだりしながら慣れて、それで小学校は行きました。中学校は遠くて行けなかった。だから私、(学歴は)小学校卒業、小卒……」。

 子どものころの写真は、下半身を自分で真っ黒に塗った。「足のない姿を見られたくないために塗ったんやなと思うんですよ。ほとんどこの頃の写真を見ると塗ってますね」。

 戦後、家族と移り住んだ大阪で、世間は自分たちをどう見ているのかを知ることになる。「階段、帰りなんか荷物が多い時は手すりを持って上がったりするでしょう。『持ってあげるよ』って言って来てくれる親切な人はいるんやけど。『どうしたん』って言うと、その時に『空襲で』『戦争で』とか言うたら、『ああそう。じゃあもらってるね』ってこんなやな。みんなそう」。

 サンフランシスコ講和条約で、日本は連合国に賠償を求める権利を放棄している。「何回も街頭宣伝して。そうしたらいつも来るおっちゃんに『それはアメリカに言え』とか言われて。アメリカに言うてもダメなんや、日本はもう『アメリカに請求せん』って言ってるんやから」。

「受忍論」という厚い壁と放置されてきた傷跡
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