■「殺された両親たちの代弁者に」3歳で戦災孤児になった女性の闘い
2007年、東京大空襲の被害者や遺族が国に補償を求めて提訴した。原告の一人、吉田由美子さん(84)は、家族との別れを話してくれた。
「空襲の日は別行動をとってるわけ。私はおじいちゃんおばあちゃんと迎えに来たおばさんとの4人で小松川方面に逃げたそうです。それで助かったわけ。みんな助かったわけ。だけど家族3人は、両親と生まれたばっかりの妹は一緒に逃げたわけですよ。どっちに逃げたかも別行動ですから分かりませんけれども、亡くなった。だからどういうふうに逃げたのか、どうやって死んでいったのかも分からない」(吉田さん、以下同)
両親と妹を亡くした吉田さんは3歳で戦災孤児になった。「親たちのことが非常に可哀想と思ったんです。子どもながらにね。死んだなんて生っちょろいことじゃなくてね、殺されたわけでしょ。そしたら何か言いたいことも言えない。私はこうやって生きているだけね、口がきけてしゃべれる。だからお父さんお母さんたちの代弁者になってやろうって、そう思った」。
終戦後、親戚に引き取られたが、「お手伝い」としてだった。「愛情がないってことは、何をしても許せないのよね。うまく仕事なんかできなかったら、『いいよ』っていう、そんなのはなくて。『何にも役に立たない』って、『お前なんか引き取りたくなかったよ』って言うのは二の句でね」。
18歳で家を出るまでそんな生活が続いた。家族の遺骨は今も見つかっていない。「お父さんお母さんを殺してしまって悪かったねって、寂しい思いしたねって。それだけでもいいじゃないですか。私たち救われますよ。私たちの本当の戦後って言われるのは、私たちはまだ迎えていませんって。それが本音ですね」。
吉田さんたちの訴えは2013年に退けられた。ただ、「立法を通して解決すべき」との判決を受け、2015年に超党派の国会議員連盟が発足した。そして10年が経った2025年、障害を負った人に50万円を支払うという内容の救済法案をまとめた。
東京大空襲で母と弟を亡くした、被害者団体の事務局長・河合節子さん(86)は「私たちとしてはもちろんそれで十分だとは言いませんけれども、戦後80年も経ってしまった中に空襲に対する国の態度が示されたような法律って、一本もないんです。戦争を起こしたのは国なのだから、それによってこういう深刻な被害が、こんなにも長く続いているということをきちんと国は認めてほしいと思います」と語る。
成立しやすいよう対象を絞ったため、吉田さんのような孤児は含まれていない。吉田さんは「スリムにしてるんですよ、補償の事も。先生方のどなたでもいい、1人でもいい。気付いて『今障害の人だけになってるけれど、そうではないでしょう』って。『やっぱり国として考えてあげましょうよ』って大きな声で、石破さんにでも呼び掛けてくれる先生が1人でもいてくれるといいなって」と語る。
終戦の日までに法案成立を目指すも、自民党内に“壁”
