「短絡的になっている世界に対する、異議申し立ての本でもあります」ゲンロン創業者の東浩紀氏が『平和と愚かさ』で問いかける考えないことの危うさと必要性

ABEMA Prime
(3/3) 記事の先頭へ戻る

平石氏 「ゲンロン」を16年やってこられた。長い生配信もずっと重ねています。そして本も分厚い。それでも前後のコミュニケーション、文脈を理解してもらわないと、すぐ揚げ足を取られて、ガッカリされてこられたんだろうと思いますが、今の思いはどうですか。

東氏 今日のこの対談でも、いろいろなところから攻撃が来るんじゃないかな。ツッコミどころろが3~4カ所はあるかなと思いますが、もうやっちゃってくださいという感じです。それを恐れても、社会が豊かにならないです。

 あと、僕の場合はゲンロンという自分の場所を持っている。誰かに言いつけると言っても、言いつける先もないですからね。差別や暴力に対して、抵抗するのは大事ですが、それは、その人が本当に差別的な意図を持っていたかとか、暴力的な意図を持っていたかを、判断した上で、抗議をしなければ意味がないわけです。単に切り取りだけ見て、誰かのインプレッション稼ぎに乗っかって「反対だ」とか「こいつクズだな」とか言っているのは、それこそ思考停止です。

 だからこの本で「考えないことが大事だ」と言っているけど、正確には「考えないことのために考えることが大事」なんですよね。この本を読んで、考えないことの意味について考えてほしいと言っています。

 あと、この本の最後に「客的ー裏方的二重性について」という、すごく変な文章が1個だけ挟まっています。全ての人間はお客さんになることもあれば、裏方になる時もあるということです。お客さんになる時は、考えない空間を欲している。でも、考えない空間を作るためには必ず裏方がいます。その例として、リゾートのプールの話をしています。今、僕がプールにプカプカ浮いているとして、そこにはプールをメンテナンスしている人がいっぱいいる。でも、ここで誰かが「メンテナンスの人たちを搾取して、自分だけがプールに浮いているのか」と僕に言ったとしても、僕だって裏方になる時もある。そのスタッフもまた、お客さんになる時もある。

 人は、客と裏方というのを、お互い交換し合っている。その時に、みんなが常に裏方のことを意識しろと言ったら、商売は成立しなくなる。ホテルの客に向かって、「あんたたちは普通にプールを使って、酒を飲んでいるけど、誰が用意していると思っているんだ」と、説教しても、これには意味がない。

 そうではなくて、自分たちの領域の中で考えない空間をどうやって作るかをやった方がいいというのが僕の考えです。それが僕の哲学の基本にあるんですが、それを最後に書いてあります。

平石氏 次は日本論について書こうという言葉もあります、3部作のイメージもお持ちだとか?

東氏 「平和・日本・哲学」の3つでやろうと思っています。僕の中に貯めているアイデアがあるんですが、日本という国で書いている人間として、日本とはなんだろうという問題について、どこかで自分の意見を言わないと、哲学者として不十分だと思うようになりました。

 僕はもともと、ヨーロッパ系の教育を受けています。フランスの哲学者について研究し、ルソーについては本も書いたことがあるので、かなり知っています。ただ、同時期にいた本居宣長については、本のタイトルは分かるけど、それがどんな内容で、宣長をどう位置付けたらいいか、わからないんです。ここ1年で勉強して、ようやく分かるようになってきたぐらいで、前はさっぱり分からなかった。

 けれども、本居宣長は国学の父の一人です。その宣長に影響を受けて、平田篤胤はエキセントリックな日本神話解釈をして、ある種の体系みたいなものを作った。それをさらに真に受けて、過激になった平田学派の人たちが、国家神道になだれ込んでいきました。その流れから考えても、宣長は思想家として大切なんです。

 でもここで宣長や篤胤の話をすると「東さん、ネトウヨになっちゃったの?」という感じになると思います。そのぐらい日本の思想業界はすごくヨーロッパナイズされていて、明治以前の人たちについて関心を持つと「急に日本に目覚めちゃったのね」ぐらいな感じなわけです。でも、僕たちは日本に住んでいるし、日本の伝統みたいなものは随所に生きている。だけど、それが議論できなくなっている。

 僕はそれを正常化しなければいけないという気持ちが、ある時期からすごく湧いてきました。日本の知識人は、1920年~30年代生まれぐらいの、団塊世代より上まではナチュラルに日本文化を教育されています。古文や漢文がある環境で、普通に日本の思想を知っている。

 ところが、団塊世代あたりから戦前に対する反省もあって、そういうタイプの教養が、共有されなくなりました。僕は、さらにその子どもの世代。古事記や日本書記を読むことや、江戸期の思想家のものを読むことが必要だなんていうのは、日本史とか国文学の一部の人たちがやることであって、こっち側はジョン・ロックやルソー、トクヴィルらから「自由とは何か」「社会とは何か」を考えていた。それが僕たちインテリなんだという感じになってしまっていたわけです。

 これは歪んでいるので、再統合というか橋をかけて、哲学とは何かとか、人文知とは何かとかについて、もう少しバランスを良くしなければいけない。そういう使命感が、最近は湧いてきて、だから次は『日本』について書こうと思います。
ABEMA『ふたりぼっちのアベプラ』より)
 

このまま画像を見る
続きは広告を見た後にご覧いただけます
クリックして広告を見る