1998年、フランスで日本代表のワールドカップ史は幕を開けた。初めて挑んだ世界の大舞台で、岡田ジャパンはいかに戦ったか。当時のチームでキャプテンを務めた井原正巳と、右サイドを支えた名良橋晃の特別対談。ふたりの代表戦士が明かした「初挑戦の記憶」からは、未知の領域に臨む選手たちの試行錯誤と気概が伝わってきた。
※本記事は2022年9月22日発売のサッカーダイジェスト本誌から転載。一部修正。
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――今回は1998年のフランス・ワールドカップを振り返っていただきます。開幕8日前の6月2日に岡田武史監督が登録メンバー22名を発表し、おふたりも選出されました。
井原 はい。ただ、メンバーに選ばれた喜びより、その頃はとにかく大会直前のスイス合宿に集中していました。キャンプに25名が帯同し、そこから3名が落選するメンバー選考方法だったのでね。
名良橋 僕も同じです。メンバーに選ばれたい気持ちはもちろんありましたが、まずは日々のトレーニングに集中していました。とはいえ僕は、6月3日が奥さんの誕生日で、なぜかメンバー発表日も同じと勘違いしたので、2日に集合がかかり、不思議に思ったのですが(笑)。
――外れた3名は、三浦知良選手、北澤豪選手、市川大祐選手でした。
井原 まさか、でしたね。誰かがメンバーから外れるとはいえ、日本代表を長く牽引したカズさん(三浦)とキーちゃん(北澤)が落選するとは……。市川は当時10代と若かったですが、ドーハの悲劇を一緒に経験したカズさんとキーちゃんに対しては、僕も思い入れがあって。ふたりが落選する影響力の大きさを想定できなかったですが、僕はキャプテンだったので、個人的な想いは置いといて、とにかくチームをまとめなければならないという気持ちに切り替えました。
名良橋 僕としてはイチ(市川)と同じポジションなので、彼の想いも背負って戦う気持ちでした。ただ、カズさんと北澤さんの落選はビックリしましたよ。ミーティングのあとかな、カズさんと北澤さんが誰かの部屋で話している声が聞こえて……。
井原 誰の部屋だろうね、僕のところには来ていないよ。中山(雅史)と話していたから。「えらいことになったな。どうする?」って。いろんな話をして最終的には、決まったからには3人の想いも背負い、初のワールドカップを良い状態で戦うしかないね、と話していた。
名良橋 しかも当時、井原さんは怪我もしていましたよね?
井原 そう、メンバー発表の日に怪我した。
名良橋 カズさんと北澤さんの落選が心のどこかで引っかかった影響もあったんですか?
井原 そうかもしれないね。正直、個人的な動揺は大きかった。メンバー発表後の午後のトレーニングで怪我したから、集中できていなかったかも。膝を痛めて、「俺もメンバーから外れるかもしれない」という想いも出てきて……。結果的には本大会までに治せたけど、岡田監督もいろんなシミュレーションをしたうえで苦労した決断だろうから、僕ら選手は決まったメンバーで頑張るしかないなと。
――初戦はアルゼンチンに0-1で敗戦。試合を振り返って下さい。
井原 日本人が誰も経験したことのなかったワールドカップはこれか……、と思う半面、フランスにたくさんの日本人サポーターが応援に来てくれて、ホームのような雰囲気でプレーできたのは助かりました。いつもどおりの感覚で試合に入れましたね。サポーターは大会前の練習にも来て声援を送ってくれて、メディア露出も増えた。盛り上がりを感じて、気持ちは高ぶりましたよ。
名良橋 お祭りのような雰囲気でしたよね。しかもウォーミングアップ時にはスタジアムで安室奈美恵さんの曲が流れたんですよ。僕、安室さん大好きなので、いっそう気持ちが高まりました(笑)。
井原 あと、個人的にはアルゼンチンとの対戦が3回目だったのもあり、緊張せず試合に入れました。以前、キリンカップとインターコンチネンタル選手権で戦ったのでね。相手には(ガブリエル・)バティストゥータなど欧州で活躍するスターがたくさんいましたが、名前負けしないように意識しました。
名良橋 僕は名前負けしました(苦笑)。だって、マッチアップしたのが当時インテルに所属していた(ディエゴ・)シメオネですからね。他にも(アリエル・)オルテガや(ファン・セバスティアン・)ベロンらテレビゲームのなかの選手ばかりで。そんな心情は隠すように努めましたが、僕はアルゼンチンと初対戦だったので、井原さんのようなメンタルではなかったです。そこで井原さんに聞きたいのですが、アルゼンチンは、インターコンチネンタル選手権で対戦した1995年の時と、ワールドカップのチーム、どちらのほうが強かったですか?
井原 インターコンチネンタル選手権のチームのほうが強かったね。1月の試合だったから、ヨーロッパでプレーするアルゼンチンの選手はコンディションがかなり良くて、もうキレキレで、本当に凄かった。ボールを奪えなくて、歯が立たないなと。日本は当たって砕けろの精神で強烈にプレッシャーをかけても、簡単にかわされて結果的に5失点。95年はかなり力の差を感じたけど、ワールドカップで対戦した時のほうが、まだ「なんとかなりそう」とも思った。
名良橋 へぇ~、そうなんですね。
井原 でも、インターコンチネンタル選手権のアルゼンチン戦は、サウジアラビアで開催された試合で、日本はアウェーマッチに慣れていなかった影響もあった。教訓を得てから海外遠征が増えて、95年6月のアンブロ・カップはナラもいたでしょ?
名良橋 はい、帯同しました。ロンドンのウェンブリー・スタジアムでイングランドと対戦しましたね。1-2で負けましたけど、井原さんの魂のヘディング弾は凄かったです!!
井原 いいんだよ、俺の得点の話は(笑)。それは置いといて、海外遠征に慣れると、イングランドと1点差まで張り合えるようになった。
――海外遠征という強化があったから、ワールドカップではアルゼンチンに1点差と善戦できたわけですね。
井原 でも結果は負けですから。失点シーンで自分のマークを捨てて、ボールを奪いに行ったチャレンジは今でも悔やみます。
名良橋 責任を背負わなくていいですよ。元を辿れば、(味方の)クリアミスから失点につながってますから。
井原 要するに、日本の小さなミスの積み重ねをアルゼンチンは見逃さなかった。シュートも落ちついていて、バティはやはり世界トップクラスのストライカーだった。
名良橋 確かにアルゼンチンは強かったですが、6日後にクロアチアとの第2戦があったので、0-1で負けて下を向いている暇はなかった。
井原 そうだね。しかも、アルゼンチンに0-1と僅差に持ち込めたから、少し自信もついて、次は勝とうという雰囲気になった。
――クロアチアとの第2戦も0-1で敗戦。どんな試合でしたか?
名良橋 かなり暑かったのは、ひとつポイントでしたよね?
井原 そうだね。暑さに慣れているのは日本で、有利に運ぶと考えていた。実際に日本が主導権を握った時間帯もあったし、アルゼンチン戦ほど圧倒されていない。
名良橋 クロアチアは1997年にキリンカップで対戦した時と比べて違いはありましたか? 僕はクロアチアと戦ったのがワールドカップで初なので聞きたいです。
井原 キリンカップで対戦した時とは招集メンバーが異なるから別チームだね。あとは当時は日本開催でアドバンテージもあった。ただ、個の能力が高いチームなのは変わらないよ。
名良橋 そうですよね。ワールドカップで僕がマッチアップしたのは、94~95年にユベントスでプレーした(ロベルト・)ヤルニでしたから。WOWOWのセリエA中継で見た選手が目の前にいると思って、また名前負けした(苦笑)。前半にドリブルでぶっちぎられて……。
井原 でも日本もチャンスはあった。
名良橋 そうですね。僕はやられたシーンもありましたが、チームとしては途中まで手応えを感じていた。
井原 そうだね。アルゼンチン戦ほど守備の時間は長くなかったけど、ゴール前のクオリティに差があった。
名良橋 僕らに決定機もありましたけど、裏を返せばクロアチアには相手の攻撃を跳ね返せる守備力があったなと。加えてチャンスを決め切る勝負強さもあった。
井原 そこは経験の差かもしれないよね。日本は国内組のみで、クロアチアにはヨーロッパで活躍する選手もいた。レベルの高い環境で紙一重の勝負を日々体感しているクロアチアのほうが一枚上手で、日本には余裕がなかった。
名良橋 確かに。日本はギア全開でないと勝てないと思い必死だった。余力がなかったかもしれないですね。
――クロアチアに敗れ、グループステージ敗退が決まったなかで迎えるジャマイカとの第3戦に向けて、チームの雰囲気は?
井原 消化試合とはいえ、ワールドカップの初勝利を飾れば、日本サッカーの歴史に残るから勝って帰ろうという雰囲気でしたね。ワールドカップの1試合には変わりないから、2002年大会につながる勝ち方をしようという想いでした。
名良橋 そうですね。アルゼンチン戦やクロアチア戦に比べれば、僕はジャマイカには名前負けしていると思わなかったし、何か後世に残したい想いが強かったです。
――名良橋さんはポスト直撃の惜しいシュートを打ちましたね。
名良橋 はい。守備は井原さんや秋田(豊)さんに任せて、前半から攻撃的に行こうと。まあ、ポストに当ててしまうのは、僕らしいかもしれない(苦笑)。
井原 ジャマイカには絶対勝利と誓った分、果敢に攻めたね。でも相手の反撃もあり、かなりオープンな展開だった。決定力が勝負のポイントになった試合で、守備陣としては簡単に失点したのは反省だな。
名良橋 最終ラインからすれば、「いい加減、決めろよ」と攻撃陣に思っていましたか?
井原 まあね……、でも、それは言っても仕方がないというか、チームとして攻撃しているから。もちろんフォワードが決めれば、ナラのシュートがポストに当たらなければ、という想いはあったけど、それもチーム力。誰かのせいではなくて、みんなで力を合わせて1点を取らないといけない。とにもかくにも、無得点で日本に帰るのだけは避けたかった。
名良橋 そうですよね。僕も無得点は一大事になると思っていました。
井原 だから中山が点を取ってくれたのは、少しホッとした。
名良橋 ドーハの悲劇を一緒に経験したゴンさんがワールドカップ初ゴールを決めたのは、井原さんとしては嬉しかったですか?
井原 もちろん。歴史に残るゴールが中山だったのは嬉しかった。ただ、0-2の状況で返した1点だから、喜んでいる場合でもなかった。
名良橋 ところで、ゴンさんの得点をヘディングでアシストしたロペさん(呂比須ワグナー)は、パスを狙ったわけではなく、シュートミスがたまたまアシストになっただけだと思いませんか?
井原 そう、あれ、シュートだよね。本人はパスと言っていたけど(笑)。
名良橋 そうは言っていますけどね(笑)。ロペさん、シュート打つ勢いで完全に頭振っていますから、パスではないだろうと。井原さんの同意を得られて確信に変わった(笑)。
井原 でも、そのボールが中山に渡りゴールを決めるのはストライカーの嗅覚だし、努力したからこそ巡ってきた運命とも言える。
名良橋 ゴンさんが試合中に骨折したのは井原さんは知っていました? 僕、試合中に全然気づかなくて。
井原 骨折か分からないにしても、相手と接触してから足を引きずっていることは気づいたよ。でも、「できる」と言うし走ったから、心配したけど大丈夫だなと。実際は骨が折れていたと、あとで知ってビックリしたね。だって、試合後もシャワーを浴びている時に「もう一回、ワールドカップに出たい。借りを返したい」とふたりで話していたから。
名良橋 へぇ~、そうなんですね。
井原 中山は「足が痛い」と言いながらではあったけど(笑)。
――中山選手の得点から5分後には、当時18歳の小野伸二選手が途中出場しました。
名良橋 彼の股抜きからのシュートは鮮明に覚えています。上手かったですよね。伸二は練習前のリフティングから僕らが真似できない技術を見せていた天才。ピッチに立っても堂々とプレーして、チームメイトから見ても凄いと感じた。
井原 2002年の日韓大会も見据えれば、彼がジャマイカ戦で試合経験を積んだのは大きかったはず。期待に応えるプレーを見せた。
――他の若手では、当時21歳の中田英寿選手もチームを牽引しました。
井原 そうですね。最後はヒデ(中田)のチームと言えるくらい存在感は大きかったです。彼に限らず、城(彰二)なども含めたアトランタ五輪を戦った選手たちは、世界大会を未経験だった僕らの世代よりも力があったので、凄みはありました。
名良橋 ヒデは上手さに加えて強さもありましたよね。ただ、アトランタ五輪世代が自由にプレーできたのも、井原さんやゴンさん、モトさん(山口素弘)がチームを支えたおか
げですよ。
――初のワールドカップは3戦全敗でした。教訓は?
井原 すべての試合に勝つ気持ちで臨むべきだったなと。大会前にチームとして1勝1分1敗でグループリーグ突破を目ざしましたが、低く設定した目標が悪く作用したかなと。
名良橋 そうですよね、それは声を大にして言いましょう(笑)。
井原 間違いなくダメだったけど、岡田監督が勘定して目標を定めた気持ちも分かるし、選手たちも「それでいいの?」と気づけなかったからね(苦笑)。初のワールドカップ出場で満足した節もあったかもしれない。分からないことだらけだったから。対戦相手の力量を考えれば、アルゼンチンには負けてもいいメンタルになったのかも。でも今振り返れば、ワールドカップでは初戦で勝点を獲得しないとグループリーグ突破は厳しいと反省していて。
名良橋 そうですね。僕らと同じく岡田監督も初のワールドカップでしたから、現実的な勘定をしたのも仕方がないのかも。
――ワールドカップは経験も重要?
井原 もちろんです。勝ち方を知っているチームは強いです。あとは、準備も大事です。メンバー選考の仕方、キャンプのスケジュールなどは肝。僕らは大会直前、海外遠征はメキシコ、ユーゴスラビアと2試合を戦っただけで本大会に臨んだので、そこは反省点だったなと。国内のゲームではなく、対外試合の積み重ねは不可欠です。ただ、大会ごとにしっかり検証したから7大会連続でワールドカップに出場できた。つまり、試行錯誤の繰り返しですよね。
名良橋 僕らの時代と比べたら、選手も大きく成長したので、僕みたいに名前負けしていないです。だから、現実的な勘定をしてはいけないと、これだけはハッキリと言えますね(笑)。
――最後に、カタール・ワールドカップに臨む現日本代表へエールをお願いします。
井原 タレントが揃っているので、メンバー選考から楽しみです。選手のクオリティは昔に比べたら上がったので、どう組み合わせて、どんな戦術を練るかは森保(一)監督やスタッフが熟慮して決断するはず。森保監督はドーハの悲劇を経験した。同じカタールの地で、今度はベスト16の壁をぜひ破ってほしいです。
名良橋 ワールドカップはサッカー選手なら誰もが目ざす、ひのき舞台なので、悔いのないようにチャレンジしてほしいですね。堂々とプレーして、良い結果を期待しています!!
取材・構成●志水麗鑑(サッカーダイジェスト編集部)
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