初戦でサウジアラビアにまさかの敗退を食らって、絶体絶命で迎えたメキシコ戦の64分。

メッシが左足一閃でメキシコゴール右隅にボールを突き刺した。

メッシがゴール右横で拳を振り上げ、雄叫びを上げた。

そのとき、アルゼンチン全土は揺れ、アルゼンチン国民は生き返り、メッシは「救いの子」となった。アルゼンチン全土の期待と、願いと、祈りと、人生が、メッシの左足で成就したのだ。

【映像】メッシはマラドーナを超えられるか?

アルゼンチンにとって神とは誰か?

長らくアルゼンチン国民を見守っていた神。アルビ・セレステ(アルゼンチン代表の愛称=選ばれた白と水色の意味)の象徴。それはディエゴ・マラドーナだった。アルゼンチンではマラドーナ前をBDと呼び(ビフォー・ディエゴ)、マラドーナ後をAD(アフター・ディエゴ)と呼ぶ。

リオネル・メッシはその神、マラドーナの再来と言われてきた。同じ左利き、同じポジション、シルキーなボールタッチ、上質でため息が出るパス、目の前に立ちはだかるDF陣を切り刻む勇敢なる姿、そして何よりゴールをアルゼンチンのために生み出し続けた。

「海を割って見せたモーゼ」のように「5人抜き」を体現して見せたメッシは、自身が神の申し子であることを自らの能力をもって証明してみせたのだ。

「このカタールが最後のW杯になる」と明言しているメッシ。グループリーグ敗退の危機で迎えたメキシコ戦。タッチラインをまたいでピッチに入るメッシには何が見えていたのだろう?

スタンドではメッシの顔が揺れていた。その横でマラドーナの顔も揺れていた。神の顔の横で自分の顔が並び、揺れている。スタジアムを見上げたとき、メッシの胸に走るものは何だったのだろう。決意か?願いか?祈りか?庇護か?

そして64分後、命を吹き込まれたボールが右隅に吸い込まれ、メキシコゴールのネットを揺らしたとき、神を追い続けたメッシの脳裏には何がよぎったのだろう?

あのボールには、マラドーナが宿っていたかもしれない。マラドーナという神がメッシに手を差しのべて、ゴールキーパー・オチョアの左手が届かないところへ、ボールを導いたのかもしれない。

「メッシはマラドーナを超えられるか?」は、長らく議論されてきた。その命題と36年ぶり3度目のアルゼンチン優勝をメッシのチームが成し遂げるか?は、常に同一視されてきた。

マラドーナは86年のメキシコでW杯を頭上に掲げ、神となった。

アルゼンチンの神・マラドーナは、優しく威厳のある存在ではなかった。泣き、叫び、怒り、憔悴し、そして弱く、傷つきやすかった。何千回と脚を削られ、ピッチに転び、身体を痛めつけられた。自ら薬物で身体を蝕んだこともあった。ただひたすらサッカーが好きで、勝つことが好きで、アルゼンチンが好きな男がマラドーナだった。

そんな神をアルゼンチン国民は愛し、畏れ、そして心に宿している。メッシもそんな神を愛する一人だ。幼少からマラドーナに憧れ、マラドーナの神業を真似、マラドーナに近づこうとしたのだ。

だから、マラドーナと並ぶとかマラドーナを超えるとかいう意識は、今のメッシにはないだろう。ひたすらアルゼンチンのために、誇り高き「白と水色」のために、自身の全身全霊を傾けてボールを相手ゴールに放り込むことだけを考えているに違いない。

メッシがパスを通すとき、そこには神・マラドーナが微笑んでいる。メッシがゴールを奪うとき、そこには神・マラドーナが叫んでいる。メッシが勝利を掴むとき、そこには大好きな神・マラドーナが宿っている。

メッシがカタールでW杯を頭上に掲げたとき、彼は神・マラドーナと一つになるのだ。

そして二人でこう叫ぶだろう!

「アルヘンティーナ!アルヘンティーナ!カーンぺオン!」

文:橘高唯史

(ABEMA/FIFAワールドカップ カタール 2022)