●スペイン代表のプレースタイルが固まったのは…

 サッカー日本代表は、FIFAワールドカップカタール・グループE第3節でスペイン代表と対戦する。かつての優勝国でもあるスペイン代表は、いかにして現在のプレースタイルにたどり着いたのか。カタールW杯に出場する32カ国+αの「プレースタイル」に焦点を当てた好評発売中の『フットボール代表プレースタイル図鑑』より、スペイン代表の章「尖鋭性が玉に瑕の早すぎる先駆者」を一部抜粋し、前後編に分けて公開する。(文:西部謙司)
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 1920年のアントワープ五輪で銀メダルを獲得。29年にはイングランド代表を初めて破った大陸国となっている。GKリカルド・サモラが伝説的な名手として知られていた。

 しかし、市民戦争と第二次世界大戦によってスペイン代表は活動を停止。久々の国際舞台となった1950年ワールドカップ・ブラジル大会では4位の好成績を残したものの、これが2010年に優勝するまでの最高成績だった。

 1950〜60年代はUEFAチャンピオンズカップでレアル・マドリーが初回から5連覇を達成し、バルセロナはUEFAカップ(現在のヨーロッパリーグ)の前身であるフェアーズカップに2度優勝していて、スペインのクラブチームがヨーロッパの頂点に君臨していた。62年ワールドカップ・チリ大会には、レアルとバルサの帰化したスター選手たちを集めて期待が高まったが、グループリーグであえなく敗退した。予選突破の中心だったアルフレド・ディ・ステファノとエレニオ・エレーラ監督が対立してチームが分裂状態となっていた。

 元アルゼンチン代表のディ・ステファノをはじめ、「マジック・マジャール(ハンガリー代表)」のキャプテンだったフェレンツ・プスカシュ、ウルグアイ人のホセ・サンタマリア、スペイン初のバロンドールを獲得することになるルイス・スアレス、世界一のWGといわれたフランシスコ・ヘントなどのスター軍団だったが、この編成そのものが疑問視されてFIFAが代表選手の「移籍」を禁ずるきっかけにもなった。

 1964年、スアレスの活躍でEURO初優勝。しかし、これが2008年まで唯一のタイトルだった。

 ワールドカップは1970、74年と連続で予選敗退し、本大会に出場できず。EUROも68、72、76年と早期敗退。テクニックはあっても組織力や体力が弱く、強豪国との対戦では劣勢を余儀なくされるヨーロッパの中堅国というのが当時の位置づけだった。

1978年アルゼンチン大会に出場を果たし、82年は自国開催だった。期待は高まったが2次リーグで敗退。ただ、80〜90年代はスペイン代表が徐々に力をつけていった時期だ。

 1986年メキシコ大会でベスト8、90年イタリア大会はベスト16。94年アメリカ大会はベスト8。目覚ましい進化とはいえないものの、持ち前のテクニックと鋭いカウンターアタックで存在感を示していた。98年フランス大会はグループリーグで敗退したが、2002年日韓大会はベスト8。韓国との準々決勝では判定ミスもあってPK戦で敗退しているが、このときのスペイン代表は両サイドを使った攻撃的なプレーを披露している。

 2006年ドイツ大会も準々決勝でフランスに完敗したとはいえ、テクニカルなパスワークを見せていた。イケル・カシージャス、カルレス・プジョル、シャビ、フェルナンド・トーレス、セルヒオ・ラモス、ダビド・ビジャ、セスクといった2年後のEURO優勝メンバーがプレーしていた。

 ルイス・アラゴネス監督はEURO2008の予選からショートパスを連続させる「ティキ・タカ」を戦い方の軸に置き、本大会ではその圧倒的なボール支配力を活用して優勝を果たす。スペイン黄金時代の幕開けであった。

 2010年南アフリカ大会ではワールドカップ初優勝、さらにEURO2012も優勝して史上初のEURO、ワールドカップ、EUROの連続制覇を達成。8年間にわたってメジャータイトル独占した。EURO2008の優勝後にアラゴネス監督が退任し、ビセンテ・デル・ボスケ監督に代わったがプレースタイルは継続されている。

 この時期のスペインが独り勝ちになったのは、戦術的な変革期のリーダーだったからだ。

【前編】スペイン代表のスタイルは伝統ではない。いかにして生まれたのか【代表プレースタイル図鑑】