セルビア代表のドラガン・ストイコビッチ監督を右腕として支える日本人コーチがいる。“ピクシー”と名古屋でも共闘し、2010年のリーグ優勝に貢献した喜熨斗勝史だ。

 そんな喜熨斗氏がヨーロッパのトップレベルで感じたすべてを明かす連載「喜熨斗勝史の欧州戦記」。今回はセルビア代表コーチとして臨んだカタール・ワールドカップを振り返ってもらった。
 
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 あっという間の20日間でした。

 セルビア代表コーチとしてカタール・ワールドカップに臨み、結果は1分2敗でグループリーグ敗退でしたが、個人としては2年間弱戦ってきた経験は何物にも代えられないものでした。ここに至るまでの過程に後悔はありません。

 初戦・ブラジル代表戦。ルサイル・スタジアムのベンチサイドでセルビア国歌を歌った時は「ああ、これがワールドカップなんだな」と感じました。当然ですが、テレビで観ていた祭典とは違っていました。58年の歳月をかけて、この舞台に立てた。その一つひとつの積み重ねが誇りであり、緊張感よりも喜びが勝っていました。

 試合のほうはご存じのように0-2で敗戦。前回コラムでも記しましたが、11月14日のチーム始動の時点で、FWアレクサンダル・ミトロビッチやFWドゥシャン・ヴラホビッチ、MFフィリップ・コスティッチら核になる選手が負傷した状態で合流した影響は少なからずあったと思います。

 前半はブラジルの攻撃を耐えましたが、我々の攻撃時間が少なくて体力消耗。そのうえ、後半の勝負どころで万全の状態の選手を送り出せなかった。そしてブラジル代表FWリシャルリソンのゴラッソ。こちらの持ち駒の少なさと、相手の個の高さで押し切られた形です。

 ただ、ミスター(ドラガン・ストイコビッチ監督)も口にしていましたが、負けても悲壮感がなかったのは事実です。第2戦・カメルーン代表戦こそがすべてでした。

 後半早々に3-1でリード。そのまま逃げ切っていれば良かったのですが、より前がかりになってしまい、カウンター2発に屈しました。もちろん守備ブロックを作っていれば勝点3が保証されていたわけではありません。極端な話、我々のストロングポイントは攻撃力。守るよりもさらに得点を奪いにいくスタンスを貫き通した結果です。
 ただ、勝点1に終わり、グループリーグ突破に大きな陰を落とした一戦だったのも事実。もしも勝点3を手にして全選手が揃ったグループリーグ最終戦・スイス代表戦に臨めていれば、また違った結果になったかもしれません。すべては結果論ですが……。

 また、決勝トーナメント1回戦で我々がワールドカップ欧州予選で勝利したポルトガル代表に、スイス代表が大敗したのを見た時は悔しさがこみ上げてきました。大会全体をとおして感じたのは、ベスト8から先は“違った領域”の戦いがあるということ。それを体感したかったというのも偽りなき本音です。

 それでもサッカーは続いていきます。以前お話ししたように、ワールドカップの結果だけが国家代表のレベルを示すものではありません。日本代表はラウンド16に進みましたが、あくまでマイルストーン(指標)です。ナショナルチームがさらに伸びていくためには継続するのか変化を加えるのか……国全体が成長するイメージのなかでどう判断するかは重要です。
 
 セルビア代表は今回の結果を受けて、すでに次の目標へと進み出しています。他の欧南米国も同様です。まだ契約書にサインはしていませんが、私自身もセルビア代表との契約延長の話を進めており、次なる代表活動への準備も進めています。

 ヨーロッパ各国は来年からEURO2024予選がスタート。そしてEURO本大会があり、欧州ネーションズリーグ、26年ワールドカップ欧州予選と続いていきます。毎年試されるし、毎年評価されます。そのなかで、もしも私がセルビア代表コーチを続けるならば、カタール・ワールドカップの経験を徹底的に落とし込める立場でありたいと考えています。

 21年3月に就任して22か月。指導者として欧州サッカーを肌で感じられたのはかけがえのない時間でした。選手やチームが持つ目標到達点の違い、選手へ何かを伝える時の効果的な方法……日本や中国で指導するなかで自分なりに考えていたことの答え合わせがサッカーの本場でできたこと。これは実際に指導してみないと分かり得ないことばかりで、ミスターには感謝しています。
 そして今回のコラムを持って、欧州戦記は一度、区切りを付けたく存じます。長らくご愛読してくださった皆様、ありがとうございます。日本サッカーが少しでも良くなって欲しい、欧州サッカーの最先端を伝えたい一心でここまで来ました。どこかで日本サッカーに私の経験のすべてを還元したい気持ちは強いです。

 タイミングがあえば、またどこかでお会いしましょう。

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PROFILE
喜熨斗勝史
きのし・かつひと/1964年10月6日生まれ、東京都出身。日本体育大卒業後に教員を経て、東京大学大学院に入学した勤勉家。プロキャリアはないが関東社会人リーグでプレーした経験がある。東京都高体連の地区選抜のコーチや監督を歴任したのち、1995年にベルマーレ平塚でプロの指導者キャリアをスタート。その後は様々なクラブでコーチやフィジカルコーチを歴任し、2004年からは三浦知良とパーソナルトレーナー契約を結んだ。08年に名古屋のフィジカルコーチに就任。ストイコビッチ監督の右腕として10年にはクラブ初のリーグ優勝に貢献した。その後は“ピクシー”が広州富力(中国)の指揮官に就任した15年夏には、ヘッドコーチとして入閣するなど、計11年半ほどストイコビッチ監督を支え続けている。
指導歴
95年6月~96年:平塚ユースフィジカルコーチ
97年~99年:平塚フィジカルコーチ
99年~02年:C大阪フィジカルコーチ
02年:浦和フィジカルコーチ
03年:大宮フィジカルコーチ
04年:尚美学園大ヘッドコーチ/東京YMCA社会体育保育専門学校監督/三浦知良パーソナルコーチ
05年:横浜FCコーチ
06年~08年:横浜FCフィジカルコーチ(チーフフィジカルディレクター)
08年~14年:名古屋フィジカルコーチ
14年~15年8月:名古屋コーチ
15年8月~:広州富力トップチームコーチ兼ユースアカデミーテクニカルディレクター
19年11月~12月:広州富力トップチーム監督代行
21年3月~: セルビア代表コンディショニングコーチ
22年~:セルビア代表アシスタントコーチ