■優生保護法と闘い続けた27年

【写真・画像】「私の人生を返して」16歳で強制された不妊手術…“優生保護法”に人生を奪われた女性、27年の闘いの記録 4枚目
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飯塚さん

「やりたいことがたくさんあったんですが、もう人生もだいぶ通り過ぎてしまったので、すごく悔しいです。私の人生を返してほしいと思っています」(1998年時の飯塚さん)

 1997年から被害を訴えてきた飯塚さん。優生保護法が母体保護法に改正されたのちも国は、不妊手術は適法という立場をとり続けた。当時の厚生省職員は「個人的にはそれが事実とすれば、お気の毒なことだと思います。合法下にやられていたということですから」と語っていた。

 裁判を起こすことを考えるが、保存されてあるはずの手術記録が見つからなかった。当時の県職員と飯塚さんの間にはこんなやり取りがあった。

「残念ながら関係書類は見つからなかった」(県職員)

「ちょっとお聞きしたいんですが、昭和38年当時の優生手術台帳で、同じぐらいの38年に行った方たちの残っている方のもあるんですか。全員のがないんですか。ある方とない方のとあるんですね。永久保存だとお聞きしたんですよ。大事な書類だけが何で処分されているのか、はっきりとした理由も聞きたいですし」(飯塚さん)

 全国にいるはずの被害者は沈黙を続け、飯塚さんは置き去りにされたまま時間が過ぎていった。2018年、飯塚さんと同じように手術を受けた宮城県の60代の女性が、国に損害賠償を求める訴えを起こし、事態は急速に動き始める。

「長かったね。まさかこんなに大きくなるとは思っていなかったし。それ(飯塚さんが声を上げ続けたこと)を見て名乗り出たみたいなので、良かったなって思っているし。他の人たちに1人でも多く出てきてもらって、謝罪と補償を受けてもらいたい」(飯塚さん)

 2019年に行われた、全国初となる優生保護法をめぐる裁判。飯塚さんも原告に加わった。「良い方向にいってもらいたいという思いはあります」。

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「不当判決」の垂れ幕を掲げる原告側

 仙台地裁は、優生保護法の違憲性は認めた一方、不法行為から20年が過ぎると賠償を求める権利がなくなるという「除斥期間(じょせききかん)」を理由に、国の賠償責任を否定した。

「全く予期しない判決でした。被害者の声を聴いた中で、判断していただくと大変期待をしていただけに、失望も大きいなと思っています」(全国優生保護法被害弁護団 新里宏二団長)

 2019年の仙台地裁と2023年の仙台高裁はいずれも原告が敗訴とされた。再び閉ざされた救済の扉。「歳月」をかけた訴えは手術からの「時」の経過を理由に退けられた。長期化した裁判。提訴から6年、最高裁での審理が始まる。

 2024年5月、迎えた最高裁での弁論。「長かったです。何度か死のうと思った時もあったし、苦しいから。でも頑張ってきました。みんなのため、自分のため。裁判につながっていったので、良かったなと思いました」(飯塚さん)

法廷で訴えた飯塚さんの思い
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