犠牲者の遺族ではない井上さんがなぜ遺骨収集に力を入れるのか。その理由をたずねると、長野県天龍村に案内された。そこは井上さんの故郷だ。
「私の父親は戦地に行って、傷痍(しょうい)軍人で片目が潰れたままだった。恩給は手厚くて、それに比べて、朝鮮の人達には戦後は国が違うからということで、国籍条項に全部引っ掛けて、何の恩恵も無いという。そういう理不尽さがすごく……私は(恩恵を)受けた身の方なので、やっぱり不平等だっていうのが基本にある。国の施策に。多分ずっとそれがあるんだろうなと思っている。やっぱり、負い目を感じながらって……早く平等になりたいじゃないですか」(井上さん)
井上さんは、平岡ダムにも向かった。「昔、この建設に携わった親戚のおじさんが、ここに遊覧船を出してくれて、私が幼稚園の頃、お花見の遊覧船をしたことがある。その頃は何も知らないからね。東京の大学に行ったときに『朝鮮人強制連行の記録』という本を友達が貸してくれて、パラパラみていたら驚いたことに天龍村の字が出てきた」。
1940年から始まった「平岡ダム」の建設には、朝鮮半島や中国などから多数の労働者が動員され、工事中に亡くなった外国人の数は現在も調査中で全容は分かっていない。
「自分の故郷がまさかそんな負の歴史を持っている村だとは全く聞いてなかったので、青天の霹靂というか、故郷のイメージがぶっ飛んだみたいな、それぐらいの衝撃があった。故郷を私はそれなりに誇りを持っていたんですけど、その故郷でたくさんの朝鮮人、中国人、捕虜の皆さんを酷使していたと。しかもその骨が『山に今も捨てられたままになっている』という記述が一番衝撃だったと思う」(井上さん)
平岡ダム建設工事の犠牲者の火葬場の跡がある。外国人の多くが火葬されたが、薪の不足により焼き切れず谷に投げ捨てられたこともあったという。
「ここの下の滝のところには来て、滝を眺めたりしていたから、まさかそんなに悲しい現場なんて思いもよらなかった。人間の最後にしたらあまりにも悲しすぎる最後。それは長生炭鉱も一緒だけど。やっぱり返せるものは故郷にお返ししたいという気持ちがさらに強くなった」(井上さん)
「真っ暗な中を明るく照らしていくような潜水活動を」
